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2007年08月16日

2007/8/12礼拝メッセージ

2007年8月12日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:49~53
「主の警告」

1. ご自身が来られた意味
 ここで,イエスはご自身が来た意味を強調しました。「わたしが来たのは,地に火を投げ込むためです。」この言葉はとても厳しいものです。しかし,この厳しさは,本当の愛から出たものでもあります。この火は,すべてを焼き尽くし,本当のものだけをあらわにする「火」のことです。隠れされた罪をあらわにし,本当の神への信仰のみ,そこに明らかにする火。その火を,投げ込むために,イエスは来られました。

2. 受けるべきバプテスマ
 私たちは,自分の罪があらわになればなるほど,そのような自分をどうすることもできなくなります。しかし,イエスはこの世界に来られ,私たちの弱さ,罪深さという現実に向き合ってくださいました。そして,イエスは私たちの罪ゆえに十字架にかかるのです。それが,イエスが受ける「バプテスマ」でした。その十字架の死によって私たちの罪が贖われ,私たちの罪がすっかり洗い清められるのです。その罪の苦しみは,私たちの基準で計れるものではありません。イエスがどんなに苦しまれたのか,そのことを,深く理解するときに,私たちの罪の重さを私たちは捉えることができるのです。

3. 分裂を与えるために
 私たちが求めるのは,「この世(地)」での平和です。それは,自分たちの都合のよい平和でしょう。しかし,イエスが私たちに与えてくださる平和は違います。それは「神の国」そのものです。しかし,この神の国を前にして,私たちは分かれてしまうという現実をイエスは教えられます。これは最も厳しい現実をあらわしています。しかし,その厳しい現実をくつがえすお方もまた,イエスご自身なのです。

[考えるために]
 イエス様はあなたに,何を知って欲しいと思っているのでしょうか?

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2007/8/5礼拝メッセージ

2007年8月5日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:41~48
「忠実な賢い管理人」

1. ペテロの質問
 なぜ,ペテロはこの質問をしたのでしょう。私たちか。それともみなのためか。ペテロの語る「私たち」「みな」とはいったい誰を指しているのでしょうか。この場面から,推測できるのは「弟子」と「群集」でしょう。これまでのたとえは,自分たちに向けてなのか,それとも,群集に対してのものなのか。自分は,群集とは違う,そのような思いがペテロにはあったのかもしれません。

2. イエスの答え
 このようなペテロに対して,イエスはさらなるたとえ話で答えられました。それはしもべの中でも,主人から全財産を預けられる管理人のたとえでした。管理人と言ってもしもべです。このたとえも,前のたとえと中心テーマは同じです。ここでもこの主人は,しもべの思いもよらない時に帰ってきます。そして,主人は自分が不在であっても,しもべが忠実であったかどうかを評価するのです。

3. 異なる点
 ここに前のたとてとは異なることが付け加えられています。それは,もし,しもべが不忠実であったらどうなるのか,という点です。そのようなしもべは,主人によって厳しく罰せられ,鞭打たれます。なぜなら,このしもべは主人の思い,考えを知っていながら,それを行わなかったからです。

4. キリストから与えられたもの
 主人から,多く与えられた者は多く求められ,多く任された者は多く要求されます。責任を持たされていないしもべは,打たれても少しですむ,これは当然の結論です。では,多く与えられた者とは誰を指しているのでしょうか。与えられたものとは,個人個人の能力や資質のことではありません。キリストを信じるときに,すでに私たちは多くのものを受けています。何よりも,キリストのいのちそのものが,与えられているのです。

[考えるために]
 与えられたものとして,私たちは,どのような歩みをもって神に応えることができるでしょうか。

投稿者 mb-church : 16:16 | コメント (0) | トラックバック