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2007年07月31日
2007/7/29礼拝メッセージ
2007年7月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:35~40
「仕える主人」
1. 二つのたとえ
この短い箇所は,二つのたとえ話が組み合わされています。最初のたとえが35~38節。二つ目が39~40節です。まずはじめのたとえ話を見ましょう。このたとえは主人の帰りを待つしもべの話です。主人の帰りを待つしもべの姿に,私たちのあり方をイエス様は写し出しています。そのあり方とは「よく準備をしている」ということです。
2. 主人の帰りのために備える
「主人の帰り」が直接意味しているのは「イエスが再び来られるとき」です。再臨の時を,私たちはどのような状態で迎えるでしょうか。私たちは,すぐに以前の基準を持ち出します。つまり,私たちは,何をしてきただろうか・・・?しかし,イエスの基準はそうではないのです。
3. 仕える主人
しもべが,忠実にいつ帰るかわからない主人の帰りを待つということは,大変なことです。単なる義務感でできることではありません。そして,この主人は,しもべの忠実さとしもべの主人に対する思いも,よく知っています。なぜなら,この主人は,忠実なしもべに,逆に仕えることによって報いる,というのです。主は,その忠実さをしっかりとご覧になり報いてくださるのです。
4. 当たり前の話
家の主人が,泥棒の入る時刻を知っているのであれば,自分の家に押し入られることはなかったことでしょう。これは当たり前の話です。この話のように,もしイエスが再び来られるということを知っているとするならば,この家の主人のように当然備えることでしょう。私たちもまた,この再び来られる方を知るときに,私たちたちがどう生き,備えるかは明らかなこと,なのです。私たちの備えはできているのでしょうか?。
[考えるために]
二つのたとえ話のポイントは何だったでしょうか?
私たちがすべき備えとはどのようなものでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:10 | コメント (0) | トラックバック
2007/7/22礼拝メッセージ
2007年7月22日の礼拝メッセージの要約です。
この日の説教者は,吉澤慎也神学生(元KGK主事)でした。
オバデヤ書1~21
「オバデヤの幻」
理解が困難だと思われがちな旧約聖書の小預言書の一つ,オバデヤ書。オバデヤは預言者であり,オバデヤ書のテーマは「エドムに対する裁き」。エドム人とはエサウの子孫であり,元々双子の兄弟だったヤコブの子孫であるイスラエル人とは良好な関係ではなかった。
1. アウトライン
1~4節:エドムに対する裁きの知らせ
5~9説:エドムが滅ぼされる様子
10~14節:エドムが滅ぼされる本質的な理由
15~16節:主の日の預言
17~21節:イスラエルの回復
2. 傍観者であってはならない
エドム人は,兄弟に値するイスラエル人が苦難のときに,それをただ傍観していた。それだけでなく,イスラエル人の敵に手を貸すことすらした。それゆえに神に裁かれた。私たちにとっての兄弟とは,①家族や親戚,②クリスチャンの兄弟姉妹,③隣人としての兄弟姉妹,の3つのレベルが考えられる。兄弟の捉え方は人によって異なって良いが,自分にとって「兄弟」と呼べる存在が誰にでもいるだろう。その兄弟が困難を覚えている時に,ただ眺めるだけであってはならない,ということをチャレンジとして受け止めたい。
3. 主の日の希望
やがて主の日が来る。主に敵対する諸々の悪は必ず討ち滅ぼされ,「王権は主のものとなる」(21節)。主に敵対する者は最後には必ず滅び,主に付き従うものは最後には必ず救われる,という希望の約束を受け止めたい。私たちの目には,悪がはびこり,罪深い世の中に見えたとしても,必ず最後には主の勝利が来る。オバデヤはその希望の約束を,廃墟となったエルサレムの只中において預言した。私たちも荒廃しているかのように見える現代の社会の只中にあって,主の日の希望の約束を信じて歩んでいきたい。
投稿者 mb-church : 10:08 | コメント (0) | トラックバック
2007/7/15礼拝メッセージ
2007年7月15日の礼拝メッセージの要約です。
エペソ人への手紙2:3~6
「私たちが知るべきこと」
[ハイデルベルグ信仰問答より]
問い2
「それならば,あなたがその慰めの中に,祝福されて,生きたまま死ぬことができるためには,あなたは,いくつのことを,知らねばならないのですか。」
答え
「三つのことです。第一には,わたしの罪とわたしの悲惨とが,どんなに大きいかということ,第二には,わたしが,どのようにして,わたしのあらゆる罪とわたしの一切の悲惨から,救われるか,ということ,第三には,わたしが,どんなに,この救いに対して,神に,感謝すべきか,ということであります。」
第一の問いは,「生きている時も,死ぬ時も,あなたのただ一つの慰めは何ですか」というものでした。
「わたしが,身も魂も,生きている時も,死ぬ時も,わたしのものではなく,わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」という答えは,信じ記憶するに値する言葉でしょう。しかし,この慰めの中に生かされ続けるためには,私たちは深く知り続けるべきことがあります。そのことをこの信仰問答は,私たちに教えています。また,そのことは,聖書が今日も,私たちに向かって語り続けているメッセージそのものなのです。
パウロは,これらのことを覚えるときに,神の恵みが自分に与えられ,神の愛が,この私に向けられていることを,強烈に自覚していたようです。それこそが,どんな時にも希望を失わず,感謝に生きたパウロの生涯の秘訣だったのです。
[考えるために]
あなたが知るべき三つのこととは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 10:01 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月15日
2007/7/8礼拝メッセージ
2007年7月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:32~34
「恐れることはない」
1. 聖霊にゆだねること
今日のポイントは,「聖霊に期待するということは,私たちの今から後を,自分や他のものではなく,主に期待してゆだねる」ということです。聖霊の働きにゆだねるということは,何を意味しているのでしょうか。それは,私たち自身の悟り,私たち自身の力,またこの世の権力,この世の富によらず,私たちの内に働かれるお方に,すべて期待し,ゆだねることを意味しています。
2. これから向ける困難
イエスは,ここで弟子たちがこれから迎えるであろう困難に言及します。しかし,そのような困難を前にしても,イエスを認める者を,神は認めてくださると約束しています。しかし,その逆に,イエスを知らないと言うものを,神もまた知らないと言うとも語られています。私たちはどうでしょうか?
3. 聖霊の働き
聖霊の働きは人の内に働き,救いを得させるよう導くことです。ですから,イエスをそしるような者であっても,聖霊に導かれ,悔い改めるならば,その人は赦されます。しかし,内なる聖霊の働きを拒否する者は,イエスを主と認めることができません。つまり,その人は赦されないのです。イエスを主と認めるのは,私たちの力や努力や意志の強さによるのでしょうか。そうではありません。その人のうちに働く聖霊の力によるのです。
4. 私たちのなすべきこと
私たちのなすべきことはいったいなんでしょうか。それは,内なる聖霊の働きに期待し,ゆだねることです。私たちの「今から後」を主に期待してゆだねること,これこそ,私たちが今なすべきことなのです。
[考えるために]
私たちは,聖霊を,日生活常の中で,認めているでしょうか?
あなたは,聖霊に期待して歩んでいるでしょうか。
投稿者 mb-church : 06:54 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月07日
2007/7/1礼拝メッセージ
2007年7月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:22~31
「心を配るところ」
1. 心配ごと
イエスは,弟子に,そして私たちに言われます。「心配するのはやめなさい」私たちは,多くのことに気を使い,心配しています。なぜ私たちは心配をしてしまうのでしょうか。それは,私に心配を消すだけの力がないからです。私たちは容易に心配で心が満たされてしまうのです。
2. 本質なるもの
私たちの心を満たす心配ごとは,私たちが求めるべき「本質なるもの」ではありません。その心配ごとのために,私たちは生きているのではないのです。今あなたの心を満たそうとしているものは何でしょうか?そのために,あなたは神に造られ,いのちが与えられたのでしょうか?
3. 烏とゆり
ここで烏とゆりが,何も心配せずに生きている姿が語られます。これらの言葉は,主がすべてを与えてくださるから,あなたは何もしなくてよい,という意味ではありません。烏もゆりも,生きること,着飾ることに関して全く心配していません。それは,とても軽やかで自然な姿です。
4. 第一とするもの
それでは,本質的なるものとは何でしょうか?あなたが今,第一としているものは何でしょうか。私たちにとって,いのちを延ばすこと,今日の食や必要なものを得ること,暮らし向きを豊かにすることは,小さなことではありません。しかし,神は,すでに何が最善であるかをご存知です。だからこそ,私たちは,本質なることに,心を向けるべきなのです。それが「神の国」なのです。
5. 神の国
神の国とはいったい何でしょうか?それは,神のすべてにおける支配のことであり,神の栄光であり,神のみこころ,み思いそのもののことです。私たちはまず神の喜ばれることが何かを求め,私たち自身を通して,神の栄光をあらわすものとさせていただきましょう。
[考えるために]
あなたには今,心配事があるでしょうか?
まずどこに私たちは目を止め,心を配るべきでしょうか?