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2007年04月22日
2007/4/22礼拝メッセージ
2007年4月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:24~28
「初めよりよくするには」
1. 出て行った汚れた霊
口をきけなくする悪霊。その霊を追い出されたイエス。そして,その姿を見ていた群衆,ユダヤ人たち。いったいイエスとは誰なのか?イエスと会った人々は,その後どうなるのでしょうか。イエスは一つの例えばなしを語られました。追い出された霊は,水のない所をさまよいながら,休み場を探します。この描写は,当時のユダヤ人の悪霊理解をよく表しています。その霊は,「出てきた自分の家に」帰ります。帰ると,家は掃除してきちんとかたづいていました。そしてそこに他の霊を連れてきたので,初めより悪くなってしまったのです。
2. 何もない家
この人の状態はよい状態なのでしょうか?この人の家(内側)は,汚れた霊から見れば,掃除をして片付いていた魅力的な場所でした。汚れた霊からみて魅力的ということは,裏をかえせば,神様から見て最悪の状態である,とも言えるでしょう。つまり,その人の中には何もなかったということなのです。そこで,霊は戻ってくることができました。それでは,そこに何があればよかったのでしょうか?
3. 神の支配がそこに
その人の中に「神の国」があれば,汚れた霊は戻ってくることはありませんでした。「神の国」が私たちの中にあるには,どのようにしたらよいのでしょうか。それには,まずキリストが主であり,神の子,救い主であると私たちが信じることです。さらには,「神のことばを聞いてそれを守る人」に神の国は到来するのです。まず第一に,私たちは神のことばを聞かなくてはなりません。そして,さらには神の支配を認め,神のことばに従うことです。その時に,私たちは初めの状態から,より良くなるのです。
[考えるために]
あなたの中に神の国は来ているでしょうか?
投稿者 mb-church : 13:24 | コメント (0) | トラックバック
2007/4/15礼拝メッセージ
2007年4月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:14~23
「わたしの味方」
1. ベルゼブル論争
この箇所は,悪霊やベルゼブルということに目が向きがちです。しかし,そのこと以上に,この箇所は「あなたはどちらの側か?」という問題を扱っています。あなたは,キリストの側か,それとも人間の側かという問題です。悪霊と罪とは密接な関係があります。ここで,イエスは悪霊を追い出し,罪を赦す救いの業を示しました。しかし,それを見て人々のうちには様々な意見が出ました。それは,イエスが神なのか,人なのか,ということでもあったのです。
2. イエスのことば
パリサイ人たちは,イエスの力や権威が,神ではなく,ベルゼブルから来ているのだと説明しました。しかし,イエスは,彼らの言葉に対し,自己矛盾をしているのはあなたがたであるとしました。イエスは,彼らの自己義認の問題,そして,キリストを信じない,さらには神の言葉を受け入れない頑なさを非難したのです。
3. さらに大きなもの
私たちは,自分たちの正しさや,自分たちの基準で歩もうとします。それは,自分では強い,十分に武装しているとして,自分の家を守っている姿であると言っていいでしょう。しかし,そこに,もっと強いものが襲ってきてとしたらどうなるのでしょうか?私たちは,自分自身の弱さ,おろかさ,狭さ,堅くなさを認めなくてはなりません。それらのものが,イエスを神の子,キリストとすることを妨げるものとなるのです。
4. わたしの味方
私たちは,自分の正しさや悟り,プライド,それらのものに固執するときに,キリストに逆らう者となります。しかし,キリストの赦し,福音に生きるときに,私たちは,キリストの味方となるのです。キリストに逆らい,平和を乱すものとならず,和解をもたらすものとならせていただきましょう。
[考えるために]
あなたは誰の側につくのでしょうか?
投稿者 mb-church : 13:22 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月14日
礼拝のご案内
2007年4月からスタートした早朝礼拝のご案内です。
毎日曜日,午前7時30分より,早朝礼拝をささげています。
どなたでもご出席ください。
主の日の朝,ともに神をほめたたえましょう。
投稿者 mb-church : 16:45 | コメント (0) | トラックバック
2007/4/8礼拝メッセージ
2007年4月8日イースター礼拝のメッセージの要約です。
ローマ人への手紙6章3~9節
「ただ一つの慰め」
[ハイデルベルグ信仰問答]
問い「生きるにも死ぬにも,あなたのただ一つの慰めは何ですか?」
答え「わたしがわたし自身のものではなく,体も魂も,生きるにも死ぬにも,わたしの真実な救い主,イエス・キリストのものであることです。」
1. あなたの慰めは?
私たちが生きていくときに,慰めとなるものは数多くあるでしょう。みなさんを元気にしてくれるものはいったいなんでしょうか?あらゆることに対する慰め,普遍的な慰めなどあるのでしょうか?人間は,死を自覚できる存在です。いつかその死がくることを知りつつ生きる存在です。多くの宗教が,死で人間は終わらない,と語ります。私たちは,死ということに対して,何らかしらの説明をしないと落ち着かないのです。当然,聖書もそのことにふれています。
2. 大きな違い
しかし,聖書には大きな違いがあります。多くの宗教では,死がなぜあるのか?ということには答えようとはしません。死は運命なのですから。しかし,聖書は違います。聖書は,その終わりの時が来る事を,人の罪ゆえであると明確に指し示します。そして,それは裁きの時でもあると。しかし,それで聖書は終わりません。聖書は,私たちに死の宣告をするのと同時に,その死の宣告を取り下げる手続きをも示します。それが,イエス・キリストの十字架の死,そして復活なのです。
3. ただ一つの慰め
移ろいやすい限りあるものでもなく,生きる上でのその時々の慰めでもない。死に対しての気休めでもない。私たちにとってのただ一つの慰め,生きるにも死ぬにも失われることのない希望こそ,十字架を通して示された赦しと復活のいのちなのです。
[考えるために]
あなたの失われることのない慰め,希望は何でしょうか?
投稿者 mb-church : 16:42 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月08日
2007/4/1礼拝メッセージ
2007年4月1日のメッセージの要約です。
ルカの福音書11章5~13節
「大胆な祈り」
1. 祈りについて
私たちの現実,そして信仰は不確かなものであると感じることが多くあります。私には救いの確信があるのだろうか?その思いに答えるかのように,イエスは祈りについてさらに解き明かされます。最初のたとえでは,祈る際の態度について語られました。この人が頼んでいる要求は友人でも聞けないものでしたが,図々しく,大胆に頼み続けるときに,必要なものが与えられるだろうと,イエスは語られました。「ましてや神だったらどうか?」だからこそ,私たちも求め,探し,たたき続けるようにと励まされています。
2. 祈りの内容
しかし,その祈る内容は,「主の祈り」に表されたものです。つまり,私たちの存在すべてを神のものとしてください,罪を赦し,この身も心も神のそばにいつまでもいさせてくださいとの祈りです。そして,神はその祈りに,父親がこどもの要求に的確に応える以上に,応えてくださるのです。
3. 私たちの真の要求
私たちの真の要求とは何でしょうか?いえ,真に要求するべきことは何でしょうか?それは私たちが「神のもの,イエス・キリストのもの」となることです。ここにゆるがない平安,慰めがあります。私の身も魂も,罪赦されて,あなたのものとしてください。あなたのそばにおらせてください。この祈りに,主は必ず答えてくださいます。そして,それは,私たちの思い込みで得られるものではなく,神が私たち一人一人にくださる聖霊の働きによらなくては,なしえないものです。そして,天の父は,その聖霊を私たちに必ず与えてくださると約束してくださっているのです。ですから,私たちもまた,大胆に,そして執拗に,天の父に祈り続けてまいりましょう。「私をあなたのものとしてください」と。