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2007年03月29日
2007/3/25礼拝メッセージ
2007年3月25日のメッセージの要約です。
ルカの福音書11章1~4節
「主の弟子の祈り」
1. 祈り方がわからない!?
弟子の一人が,祈りを教えてくださいとイエス様に願いました。よく,祈り方が分からない,人前で祈るのが難しい,という人がいます。私たちは祈ることによって,祈りを学びます。ですから,主イエスが教えられた祈りをよく理解し,実際に祈ることこそ,最良の祈りの訓練であるといえるでしょう。
2. 父よ!
「父よ。」この言葉は「お父さん」という一般的な語です。偉大なる神,全能なる神,恐るべき神を,私たちは父と呼ぶことが許されています。すでにここに計り知れないほど大きな神の恵みが示されています。そして,最初に祈ることは,神ご自身への賛美と,神のみこころを求めることです。それは,誰かにではなく,この私,私たち教会こそが,主の名をあがめ,主のみこころがなる者となるように,との祈りです。
3. 3つの祈り
この祈りは,私たちの身に主の栄光が表されるための具体的な祈りの言葉へとつながっていきます。ここには3つの祈りが記されています。第一は,私たちの日ごとの糧をお与えください,というもの。つまり,全てのもの,私のいのちは,神から発し,神抜きには成り立たないことを覚える祈りです。二番目の祈りは,罪の赦しと人との和解についてです。聖なる神の前に,罪を言い表し,赦され,そして人を赦すものとなる。それは,まさに福音の祈りといっていいでしょう。そして三番目の祈りは,「私たちを試みに会わせないでください」というものです。罪赦された私たちは,いまや主のものです。しかし,いまだ,その救いは完成していません。この世界を神の民として歩まなくてはならないのです。この三番目の祈りは,私たちの新たなアイデンティティから出てくる祈りです。神から私たちを引き離そうとする力に対して,私たちは「神から離れたくない!」と願うものでしょうか。この願いこそ,「私たちを試みにあわせないでください」との祈りへと導くものなのです。そして,この思いこそ,私たちの信仰生活を形作るものとなるのです。
[考えるために]
「神,あなたから離れたくない」との切なる祈りが,私たちの内にあるでしょうか?
投稿者 mb-church : 12:50 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月22日
2007/3/18礼拝メッセージ
2007年3月18日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章38~42節
「よい方をえらぶ」
1. マルタとマリヤ
この二人のうち,私はどちらだろうか?そのようによく問われる箇所です。しかし,ここでのイエスのメッセージは,どちらか,という話ではありません。マリヤのあり方がよしとされていると言っていいでしょう。ここで,マルタはマリヤのことをひがんでいるようにも見えます。しかし,この箇所は,単なるこの二人の女性の話では終わりません。
2. マルタの背後にあるもの
この箇所は,当時の社会常識と対立する話です。マルタの主張の根拠は,当時の女性のあり方と深く結びついています。当時,主に女性が労働を担っていました。ですから,男性の前に,女性が来るということはありえないことでした。マリヤの行動は,このようなあり方に反するものでした。それは決して見過ごしにされるべき事柄ではなかったのです。
3. イエスの答え
しかし,イエスはマルタの訴え,当時の常識に対して,別の回答を与えました。マリヤのあり方をよしとされたのです。この答えは,マルタはもちろんのこと,ユダヤ人や異邦人にも,大きなインパクトを与えるものだったことでしょう。この集団の中では取るに足りないマリヤを,ほめられたのです。
4. マリヤ
マリヤの行動は,当時の人々の考えや常識を打ち破ったものです。それは,マリヤのどうしてもイエスの御許に行きたい,おことばを聞きたいとの信仰がもたらしたものでした。周囲の人々の目や考えを知っていても,なお彼女はイエスの足元へその身を置いたのです。イエスは何よりも大事なものがある,と言われています。全ての人は,まず主の御許に行かなくてはなりません。私たちもマルタのように,多くのことを心配し,気を使っています。しかし,本当に大事なことは,ただひとつなのです。
[考えるために]
今,まず,私たちがするべきことは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 18:28 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月17日
2007/3/11礼拝メッセージ
2007年3月11日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章29~37節
「あなたの隣人」
1. 律法の専門家の質問
イエスの返答から,律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか?」と質問をしました。しかし,これは自分の正しさを示そうとした質問だったのです。自分は律法をよく知っていますし,また同胞に対してすでにそのことを実行しています。そう彼は主張したかったのでしょう。
2. イエスの語ったたとえ
しかし,イエスが示した隣人とは,誰が隣人であったか,ではなく,誰が隣人となったか,というものでした。そのたとえ話で語られたその隣人となった人は,ユダヤ人の忌み嫌うサマリヤ人だったのです。たとえ話に出てくる祭司もレビ人も,瀕死の人のところに行かなかった言い訳を考えることはできるでしょう。しかし,このサマリヤ人は,その言い訳を知っていたとしても,この瀕死の人のもとへと駆け寄ったのです。
3. 神のことばの真意
律法が示そうとしているのは,表面的な問題や正しさではありません。神のみこころを理解し,そして神の示す聖さ,愛へと私たちが向かおうとしているかどうか,です。サマリヤ人はユダヤ人から見れば,救われるはずのない人々でした。しかし,神の考えはどうではありませんでした。神を愛する人とはどのような者でしょうか。それは,神のことばを守る人のことです。しかし,それはあくまでも,神のことばに表された神の真意に従う者のことです。神がご覧になるのは,人からの評価ではありません。私たちが,今,神のことばを聞き,そして従っているかが問題なのです。イエスは今も私たちにこう語られます。「あなたも行って同じようにしなさい」と。
[考えるために]
あなたは隣人となっているでしょうか?
投稿者 mb-church : 09:42 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月08日
2007/3/4礼拝メッセージ
2007年3月4日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章25~28節
「そうすれば,いのちを得る」
1. 「賢い者」からの反応
これまでの大きなポイントは,第一に,キリストの弟子たちは平和をのべ伝えるということ。そして第二に,福音が「幼児」に知らされているということでした。そこで,ある律法の専門家が質問をします。「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」永遠のいのちは,聖書において大変意義深い言葉の一つです。「いのち」という言葉で語られるその意味の深さ,豊かさを,私たちは知る必要があるでしょう。それは22節でイエスが示されたように,神との特別な関係で語られるものだからです。
2. 自らの正しさと神のみこころ
自らの正しさを律法の専門家は示そうとしましたが,イエスは,神にあるいのちのあり方を示されました。それは,律法によって示されてきたことでした。神を愛すること,そして隣人を愛すること。律法の専門家は,そこに示された神のみこころに生きるのではなく,自分の正しさのために律法を引用しました。そこでイエスは,こう言われました。「それを実行しなさい。」なぜ,イエスはこのようにお答えになったのでしょうか。
3. 律法の役割
律法には二つの役割があります。第一に,律法には,神のみこころ,神の聖さ,神の基準が表されています。律法によって私たちは自分の不完全さ,罪を示され,イエス・キリストのもとへと導かれていくのです。しかし,それだけではありません。それは,新しいいのちの生き方を示すという役割です。イエスが与えてくださる神との平和,人との和解という生き方そのものを,律法は指し続けています。律法は,新しいいのちを得た者,つまり,神の子とされた者の生きる基準でもあるということなのです。これこそ「永遠のいのち」の生き方へと通じる道です。罪赦された者の生きる道は,神を愛し,与えられた隣人を愛することです。それがキリストの示された足跡であり,まことのいのちを燃やす生なのです。
[考えるために]
律法の役割とは何でしょうか?