« 2007年01月 | メインページへ | 2007年03月 »

2007年02月28日

2007/2/25礼拝メッセージ

2007年2月25日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章21~24節
「明らかにされたこと」

1. 幼き者に
 これまでのことが,どれほどすばらしいことかを,イエスは語られています。それでは誰に示されたのでしょうか。それは,賢い者,知恵のある者ではありませんでした。そうではなく,幼子に,つまり,神の前に愚かである人,小さき者に示されたのです。どんなにこの世の知恵を得ようとも,どんなにこの世の富を得ようとも,神の前の謙遜さこそ,信仰を得るのにもっとも必要なことです。ここに神の選びの不思議さと,神聖さがあります。

2. 父なる神と子なるキリスト
 ここで,イエスは神とご自身の密接な関係を口にしています。これは,父なる神と,子なるイエスの分離することのできない関係を示しています。イエスと父なる神の特別な関係。その一体性。そして,さらには,その関係が,私たちにまで及んでいるとイエスは言われます。私たちは,神を「知る」ことが許されているのです。「知る」という言葉は,単なる知識を得ることを意味しません。深い関係を持つことを示しています。そして,神を知ることとは,神に全信頼をおくことから始まります。この神との関係こそ,私たちの宝なのです。

3. すばらしいこと
 イエスは,この真理が,預言者や王たちすら得られなかったものであると言います。多くの特権を与えられた人々でさえ,与えられなかった真理が今,イエス・キリストを通して,名もなき者たちに明らかにされたのです。私たちは,今,イエス・キリストによって,神を知ることが許されています。イエス・キリストの贖いによって,私たちは神を知り続ける,永遠への歩みが与えられたのです。それは神の憐れみと恵みによるものなのです。

[考えるために]
 神が欲しているのは,あなたの何でしょうか?

投稿者 mb-church : 15:25

2007年02月22日

2007/2/18礼拝メッセージ

2007年2月18日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章17~20節
「ただその名がしるされていることを」

1. 帰還した弟子たち
 70人が喜んでイエス様のもとに帰ってきました。彼らが,イエスに命じられたように,町々へと行き,イエスの名にある平安と赦しを宣言するときに,罪の赦しと解放が与えられました。罪によって,この世界が苦しみ,痛み,ゆがめられている。悪霊の働きを何もオカルトの世界だけで捉えてはなりません。悪霊の働き,それはつまり罪に支配されている状態のことを指し,そこには,神にある平安はありません。そこにあるのは,絶えず分裂と争い,比較,ねたみ,不安…です。それは御霊によって与えられるものと正反対のものと言っていいでしょう。

2. 勝利したイエス
 神は,この世界と人間をよきものとして創造しました。しかし,人間の罪ゆえに,それはゆがみ,汚れたものとなってしまいました。しかし,イエスの名によって,その罪からの解放が与えられます。イエスの前でサタンはもはや権威者ではなく,罪の支配は終焉したのです。私たちに致命傷を負わせる敵はいないのです。イエスの名にあるならば,私たちはすでに神のもの,神の民となっているのです。

3. 当たり前ではない恵み
 しかし,イエスはここで弟子たちに注意を与えます。イエスにある権威が与えられたからといって,思い上がってはならないと戒められます。それは,つまり罪赦されているからといって,それを自分の力でなしえた,自分はもう大丈夫,自分は達成したと思ってはならない,ということでしょう。私たちが救われたのは,神の側の一方的な選びと恵みによるものなのです。私たちは世を裁くものではなく,キリストにある救いを証するものとして,この世に遣わされているのです。

[考えるために]
 神の側の驚くべき恵みとは何でしょうか?

投稿者 mb-church : 17:42 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月14日

2007/2/11礼拝メッセージ

2007年2月11日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章3~16節
「信仰からくる朗らかさ」

1. 信仰からくる朗らかさ
 日本の教会にないものとは何でしょうか?会堂もあります。礼拝もあります。聖書もあります。しかし,主にある開かれた雰囲気というものに欠ける場合が多いのではないでしょうか。来た人だれもがここに居てよいのだ,という雰囲気。これは信仰からくる朗らかさということに起因するのではないでしょうか。

2. 神の平安,平和を宣言するもの
 私たちは,「平安があるように」と語るように導かれています。これは,福音の中心にあるメッセージです。神のとの和解,罪の赦しがここにあります。また,私たち人間の平安,平和の鍵がここにあります。キリストの十字架によって,罪ののろいが取り除かれ,神の国の民として歩むことが許されるという祝福が,私たちに与えられています。

3. 裁きを宣言するもの
 しかし,多くの人々が,この福音を拒否します。当時の人々も,また現代に生きる私たちも,同様にこの福音を拒否する者が多くいます。イエスは,そのような人々に対し,裁きの言葉を宣告しています。しかし,この言葉は「裁き」の宣言であると同時に,「招きの言葉」でもあることに気がつかなくてはなりません。

4. 罪びとのかしらとして
 イエスは,私たちを遣わされます。私たちは,裁きとともに,十字架にある赦しの福音をのべつたえます。そのときに,私たち自身もまた,罪人の一人であり,神の憐れみを受けた一人であることを,忘れてはなりません。私たちが人を裁くのではありません。私たちは,キリストの招きを,キリストにある和解を人々に伝えるのです。信仰にある朗らかさは,自分が救われないものであるのに,一方的な恵みによって救われた,という信仰から生じるものなのです。私たちもまた,神の愛を知ったものとして,遣わされてまいりましょう。

[考えるために]
 イエスはなぜ嘆き,厳しいことばを伝えられたのでしょうか?

投稿者 mb-church : 13:56 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月08日

2007/1/28礼拝メッセージ

だいぶ更新が滞っていました。
すみません。
ちょっとハワイ(!)まで,セミナーのため喜んで出張していました。
一枚写真をご紹介。

hawaiiSANY0059.JPG

2007年1月28日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章3~16節
「キリストの大使として」

1. この世と私たち
 この箇所は,主に従う者とこの世界との関係について述べている箇所です。3つの点を確認しましょう。第一に,私たちは「この世界に遣わされているのだ」ということです。私たちはキリストの大使としてそれぞれの場へ送り出されています。しかし,その場所は,たとえそれぞれよく知っていた場所だとしても,用心することが必要な場所でもあります。狼の中に子羊を送り出す,それほどに相容れない関係が,主に従う者とこの世にはあります。私たちを,神から引き離そうとする力は,この世に多くあることを覚えなくてはなりません。私たちはそのような世界に遣わされているという自覚を持ち,羊飼いなる主の声を,絶えず聞いていかなくてはならないのです。

2. 私たちの使命
 第二に,私たちの使命とは何かを忘れてはならない,ということです。私たちの使命は「神の平安」を宣言することです。それは,神との和解であり,同時に人々との平和でもあります。私たちは,キリストの十字架によって神と和解することができます。そしてその和解は,一個人の平安に留まらず,周囲の人々にももたらされる平和となるものです。キリストの十字架は,この世界に和解を,平安を,そして平和を与えるものなのです。私たちの使命は,このすばらしい和解をこの世に宣言することです。

3. 私たちを支えるもの
 第三に,私たちの中心は常に神の国に向けられているということです。私たちが,この世を歩むときに,生活をし糧を得るということを無視してはできません。しかし,私たちが福音を述べ伝えるのは,決して報酬のための働きではありません。私たちの人生の中心は,信仰によってただ自分だけが豊かになり,報酬を受けることにはありません。私たちの中心は,神との和解に生き,神の平安を述べ伝え,神の平和を人と結ぶことにあります。私たちの中心は,この世ではなく,神の国とその義に向けられているのです。

[考えるために]
 私たちは何のために(ゆえに),それぞれの場所に遣わされているのでしょうか?

投稿者 mb-church : 17:00 | コメント (0) | トラックバック