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2006年12月27日
2006/12/24礼拝メッセージ
2006年12月24日のメッセージの要約です。
ヨハネの福音書1章9~13節
「まことの光」
1. 光が来た!
歴史からいえば,すでに,まことの光であるイエス・キリストはこの世に来られました。しかし,ここでヨハネは,そのことを,過去の出来事として語ろうとはしていません。今,私たちの前で起こることとして,この言葉を記しています。今,まさに,このみことばを開く私たちの中に,まことの光が出現しようとしているのです。
2. 光とは何か?
この光は,すべての人を照らすまことの光です。否応なしにすべてを照らしてしまう光。この光の前では,暗いところはひとつもありません。また,この光である方を通して,この世界は創造されました。つまり,この光とともに歩むように世界は創造されたのです。しかし,この世界は,このまことの光を失ってしまいました。私たちは,やがては死,痛み,孤独,苦しみという深い闇に飲み込まれてしまう存在となってしまったのです。
3. この地上において
この光は私たちの闇の世界,この地上に来てくださいました。そのお方こそイエス・キリストです。しかし,この方を私たちは受け入れようとはしませんでした。そして,キリストは十字架に架かられたのです。私たちが闇から抜け出し,まことの光である方と歩むことのできるようにと,私たちの罪をその身に背負われたのです。
4. 神の子となる特権
私たちは,このイエス・キリストを信じることによって,神のこどもとされる特権が与えられます。イエスを救い主,私の光であると信じるというだけで,その特権を回復しよう,そう神は約束しています。これは,私たちの血筋や意欲,力によるものではありません。ただイエス・キリストを通してなされた神のわざによってなのです。クリスマスは,このまことの光が私たちのところに来てくださったことを,私たちに告げ知らせる大きな出来事なのです。
[考えるために]
神の子となる特権とは何でしょうか?あなたはこの特権を得ていますか?
投稿者 mb-church : 13:45 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月18日
教会のクリスマス
真砂バプテスト教会のクリスマスのお知らせです。
12/24 午前10:00~ クリスマス礼拝
礼拝後,クリスマスランチです。
12/24 午後6:00~ イブ礼拝
賛美と聖書朗読,そしてキャンドルの灯の一時です。
こどもから大人まで,どなたでも歓迎いたします。
投稿者 mb-church : 17:24 | コメント (0) | トラックバック
2006/12/17礼拝メッセージ
2006年12月17日のメッセージの要約です。
ヨハネの福音書1章1~9節
「世の光」
1. 序文
このヨハネの福音書の序文は,とても有名です。「初めに,ことばがあった。」この言葉を聞いて,当時の人々がすぐに思い浮かべたのは,創世記の第一章一節です。神が神であること。それはこの天地創造に完全に表されています。この世界を作り,そしてあらゆる命を生み出し,人間を形作ったその神のみわざ。その神のみわざは,神のことばによって形作られ,そして動き出しました。
2. 神のことば
「ことば」とはいったい何でしょうか?ことばは「伝達手段」です。私たちの考えや感情をことばによって表現します。また,ことばが新たなものをも生み出します。人間にとって,ことばはとても大事なものです。しかし,神のことばはさらに大きく,深い意味を持つものです。すべてを生成し,すべてを支配し,すべてを動かすことばです。そして,神のことばは,必ずその通りになるものです。
3. キリスト
ヨハネは,その神のことばの真実を新に明らかにしました。それは,そのことばこそ,イエス・キリストであるということです。ことばはキリストであり,そして,そのことばは神とともにあった。神の意志,神の思い,神のみこころ,そのすべてがキリストであり,キリストとともにあるということ。この意味は深遠で大きなものです。そして,何よりも,この世界は,また私たちは,神のことばであるキリストなくしては,本来のいのちを得ることができない存在であることが,ここで明らかにされています。
4. 世の光
この世界は,神を失い,いのちそのものがやみに閉ざされた状態です。私たちの力ではそのやみに打ち勝つことはできません。しかし,聖書は語ります。キリストこそ,世の光であると。この世のやみは,この光には打ち勝つことができません。私たちもまた,キリストを得るときに,決してやみの中で絶望することなく,光の内を歩むことができるのです
[考えるために]
この世界のやみを変えることのできるお方とは誰でしょうか?私たちのやみとは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 17:10 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月12日
2006/12/10礼拝メッセージ
2006年12月10日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章57~62節
「枕するところもなく」
1. イエスに従うということ
三人の人がイエスと対話をします。その中心テーマは「イエスに従うこと」です。最初の人はこう言います。「私はあなたのおいでになる所なら,どこにでもついて行きます。」なぜこの人は,人々の前でこのように言ったのでしょうか?自分の正しさや認められたいとの思いからだったのでしょうか。しかし,イエスの答えは,その歩まれる道の困難さでした。
2. わたしについてきなさい
次の人にイエスは言われました。「わたしについて来なさい。」それに対しこのような言葉が返ってきました。「私の父を葬ることを許してください。」当時,家族の死は最優先されるべき事柄でした。しかし,イエスはこの答えに対して,「あなたは出て行って,神の国を言い広めなさい」と告げられました。イエスが語られたその道の困難さを聞いた上で,この人は従うことを,家族を理由に拒みました。自分が思い描いているメシアとは違うと考えたのでしょうか。待ち受ける困難を前にして,この人はイエスを第一とすることができなかったのです。
3. 従うその前に
三番目の人もイエスに従い続けると口にすることができませんでした。「ただその前に,家の者にいとまごいに帰らせてください。」この人もまた,すでにイエスに従ってここまで来た一人でした。イエスのみわざ,ことば,そしてイエス自身の姿を見て従って来たにもかかわらず,いよいよエルサレムへと向かわれるその途上にきて,帰らせてください,と彼は願ったのです。
4. 後ろではなく
私たちもまたイエスに従う中で,様々な選択を迫られます。このような中で私たちもまた,この三人の人のように,自らを飾ったり,言い訳をすることがあるかもしれません。しかし,私たちはそのような古い,罪に縛られた自分を見続けるのではなく,前を見るようにと言われています。エルサレムへと顔をまっすぐに向けられたイエス。その十字架のイエスを見続けるときに,私たちはイエスに似せられて新しくされていくのです。
[考えるために]
今,イエスは「わたしについて来なさい」と問われています。あなたは何と答えるでしょうか?
投稿者 mb-church : 07:35 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月07日
2006/12/3礼拝メッセージ
千葉も寒くなってきました。
それでも暖かい方なのでしょうが・・・。
皆様,風邪などひかぬよう,お気をつけください。
2006年12月3日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章51~56節
「御顔を上げられたイエス」
1. 御顔を上げられたイエス
ガリラヤでの宣教活動を終え,いよいよイエスはエルサレムへと顔を向けられました。イエスが,ヨセフとマリアのもとに幼子として,この世に来られたのはなぜでしょうか?「神の国が近づいたことを宣言するため」「悔い改めをこの世界に促し,神に立ち返る者たちを起こすため」「人々を癒し,罪を赦し,神の救いを人々に告げ知らせるため」そのどれもがその理由に当たるでしょう。しかし,何よりも最大の目的は「十字架」でした。これこそイエスにしかできない働きだったのです。
2. イエスの決意
イエスにしかできない働きである十字架へと向かうため,イエスは顔を上げられました。ここにイエスの決意の深さを見ることができます。しかし,多くの人々や弟子たちはそのイエスのみこころを理解していませんでした。イエスを拒んだサマリアの人々に対して,ヤコブとヨハネは「天から火を呼び下して,彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言います。ここでも,彼らは自分たちの正しさや力に頼み,イエスのこころを理解しようとはしていません。私たちもまた,自分たちの価値観やあり方を,自分の力ではなかなか捨てることができないのです。
3. 神の熱心
私たちは,自分の力や知恵で歩めているかのように錯覚してしますものです。人々の不理解の中でも,イエスは顔を上げられ,あの十字架に向かわれました。私たちのどうしようもない愚かさ,罪深さ,弱さを知りながら,イエスは,それでも顔を上げられ,エルサレムへと向かわれたのです。私たちの救いの確かさは,私たちの力や知恵によるものではありません。私たちの救いは,唯この神の熱心さによらなければならないのです。
[考えるために]
私たちの救いは何故,確かなものとなるのでしょうか?