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2006年11月28日
2006/11/26礼拝メッセージ
2006年11月26日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章46~50節
「一番ちいさい者」
1. 「謙遜」
「謙遜」はクリスチャンの価値観の中でも,大事なテーマです。この箇所は,イエスのガリラヤ宣教の最後にあたる箇所です。その最後が,弟子たちの論争であったということは,なんとも皮肉なものです。しかし,その現実から,聖書は目をそらしません。この現実から私たちはスタートしなくてはならないのです。弟子たちは,ここで自分たちの中で,だれが一番偉いかという議論をしています。他の人との比較は,私たちの根源的な問題です。周りを見て,私たちは自分の立ち位置を確かめているのです。
2. 私たちの視点
私たちは,狭い自分だけの視点から解放されない限り,この根源的な問題を乗り越えることはできません。そして,イエスも弟子たちに語ります。「だれでも,このようなこどもを,わたしの名のゆえに受け入れる者は,わたしを受け入れるものです。」当時,こどもを受け入れることは,ほとんど価値のないことでした。しかし,イエスは,まったく異なる次元の視点へと目線を向けられました。イエスのことばは,弟子たちの価値観を逆転させてしまうものでした。私たちは,自分たちの価値観から,神の視点へと変えられる必要があるのです。
3. 「わたしの名のゆえに」
私たちは,イエスの名において,罪の奴隷から,神の基準に生かされている神の民となることが許されます。イエスの名こそ私たちの中心におくべきことです。私たちは,十字架の死にまで従われたイエスの姿を忘れてはなりません。ご自身を無にしたイエスの姿。私たちは自分という狭い視野から抜け出し,真の「謙遜」を求めたいと思います。私たちが第一に求めるのは,この世界がイエスが救い主であると知り,神様が礼拝され,ほめたたえられることなのです。
[考えるために]
私たちの根源的な問題は何でしょうか?
ピリピ2:3~11を読みましょう。
投稿者 mb-church : 14:09 | コメント (0) | トラックバック
2006年11月22日
2006/11/19礼拝メッセージ
2006年11月19日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章37~45節
「イエスの嘆き」
1. イエスの嘆き
イエスの栄光の姿が現されたすぐ次ぎの日。イエスは,再度,人々の前でその偉大なわざを示されました。しかし,この場面でイエスは焦燥感すら漂わせるような言葉を口にしています。「いつまでがまんしなくてはならないのでしょう―」なぜ,イエスはこのような嘆きを口にしたのでしょうか。既にイエスは,ガリラヤ伝道を通して,ご自身の姿を現し,みことばを語り,十字架の予告までしました。そして,その栄光の姿をはっきりと示されました。しかし,依然として,イエスと弟子たちの間には,大きなギャップがあったのです。
2. ひとり息子のいやし
そのような中で,弟子たちには癒すことのできなかった人がやってきます。弟子には人を癒すだけの力が足りなかったのでしょうか?イエスはこのように人々に言われます。「ああ不信仰な,曲がった今の世だ。」弟子たちが癒せなかったのは,力不足でも,信心が足りなかったからでもありません。それは,人々のみこころの不理解,さらには頑なさが原因だったのです。不信仰とは,神のみこころを正しく把握していないことからくるものなのです。
3. イエスのみこころ
イエスが考えておられる救いは,人々が考えるものとはまったく異なるものでした。もう一度イエスは,ご自身の歩まれる道を指し示しました。私たちの目には,愚かにも思える十字架の道。しかし,これこそ私たち自身から出てくるものではなく,神が与えてくださる救いの道なのです。イエスは救いを与えようとしておられる。しかし,私たち自身が頑なために,その恵みを受けられずにいるのです。私たちの救いは,主イエスのみ名にあるのです。
[考えるために]
「不信仰」はどこから来るのでしょうか?
投稿者 mb-church : 09:57 | コメント (0) | トラックバック
2006年11月16日
ハートフルコンサート2007
2007年1月20日(土)に,ハートフルコンサート2007を,当教会において開催します。
今回は,北海道からすばらしいゲストをお迎えします。
そのゲストとは・・・遠藤稔さん!
現役の牧師であり,神様に賛美をささげる音楽家でもある遠藤稔さんをお迎えしてのハートフルコンサート。
ピアニストでもある遠藤さんですが,今回はソプラノサックスでのコンサート。
さてどんな音色を聞かせてくださるのでしょうか?
皆さん,すばらしい神様への賛美に,暖まりに来てください。

ちらしを印刷する方はこちら。
投稿者 mb-church : 17:41 | コメント (0) | トラックバック
2006年11月05日
2006/11/05礼拝メッセージ
2006年11月5日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章23~27節
「いのちを救う者」
1. 十字架を背負う
ペテロの「神のキリストです」という告白の後,イエスは「自分の十字架を負いなさい」という命令を与えました。この言葉だけを見ると,自分のエゴを捨て,自分の運命を背負いなさい,という命令に聞こえます。しかし,この十字架を「運命や重荷」と読み取るのは,イエスの言葉の意図から離れた読み取り方となるでしょう。「自分を捨てる」とはいかなることでしょうか。自分を捨てるとは,自分が思う救い,自分が考える正しさを捨てるといことです。まず私たちは,十字架を背負う前に,自分を捨てなくてはならないのです。
2. 十字架を掲げる
十字架を負うとは,運命や義務を負うのではなく,十字架を掲げるということです。つまり,十字架を背負うとは,あなたに与えられた十字架の救い,恵みを掲げるということです。これこそ,自分の十字架を負うということの意味です。私たちは,自分を掲げるのではなく,一人一人に与えられるキリストの十字架を日々掲げるのです。
3. がんばるのではなく
「自分のいのちを救おうと思う者は,それを失い,わたしのために自分のいのちを失う者は,それを救うのです。」自分で自分のことを救おう,よくしようとがんばっている限り,イエスの十字架を感謝を持って受け取ることはできません。私たちは,自分の力で歩み続けている限り,十字架の福音の本質を知ることはできないでしょう。しかし,その一方で,自分を捨てることも努力ではできないものです。だからこそ,私たちは,圧倒的な十字架の恵み,十字架のすばらしさを,絶えず知らなくてはなりません。そのときに,私たちは自分を捨てることへと導かれるのです。あなたを救うという神の約束により頼んでいきましょう。
[考えるために]
あなたに与えられた十字架の恵みとは何でしょうか?
あなたは自分の力で自分を救おうとする者でしょうか,それともイエスの十字架に生きる者でしょうか。
投稿者 mb-church : 15:26 | コメント (0) | トラックバック
2006年11月01日
2006/10/29礼拝メッセージ
2006年10月29日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章18~22節
「あなたはわたしを誰と」
1. 当時のうわさ
当時の人々の間で,イエスが誰であるかが,人々の関心事になっていました。領主ヘロデもその例外ではありません。しかし,まだ人々はイエスをキリストであるとは受け止めていませんでした。しかし,イエスは,5千人の給食を通して,ご自身をさらに証されたのです。
2. ペテロの反応
人々は,イエスのことを,バプテスマのヨハネやエリヤ,さらには昔の預言者であるとうわさしていました。イエスは,そのような中,ペテロにこのように問いかけます。「それでは,あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペテロの答えは明確でした。「神のキリストです。」すばらしい告白です。しかし,このときのペテロが何を思って,イエスをキリストと告白したのかは定かではありません。イエスは自らの口で,自分をメシアであるとは宣言しませんでした。イエスは,弟子たち自らが真理に気がつくことを求めているかのようです。
3. あなたは何と言うのか?
人々が考える答えではなく,あなたはどうなのか?しかし,この時点では,ペテロは「キリスト」の本当の意味を知りません。彼の理解していたメシア像とイエスとは一致していなかったのです。ですから,ペテロを戒め,そのことを口にしないように命じられました。人間が,自分で思い描く理想郷の実現のために,イエスは来られたのではない。そうではなく,神の栄光のため,神の義のために,そして神の愛ゆえに,イエスは来られた。このことをペテロたちが真に理解し,そしてキリストを宣べ伝えるようになるのは,まだ先のことです。しかし,私たちもまた,みことばによってイエスが誰なのかを正しく理解し,信じることができるようになります。求める者には必ずイエスは答えてくださるお方なのです。
[考えるために]
聖書はイエスを誰であると証言していますか?
あなたはイエスを誰であると証言しますか?