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2006年10月25日

2006/10/22礼拝メッセージ

2006年10月22日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章7~17節
「わずかなものでも」

1. 5つのパンと2匹の魚
 ここにある食べ物は,わずか5つのパンと2匹の魚。この群衆は,「もたざる人々」「病んだ人々」「弱き人々」だったことでしょう。しかし,彼らは,イエスを心から求め,イエスのもとに集まってきた人々でした。この時の経験は,おそらく初期の教会の基ともなったのではないでしょうか。その人々の多くは「貧しい人々」でした。しかし,彼らはイエスを心から求め,付き従った人々だったのです。

2. 弟子への問いかけ
 イエスは,彼らを迎え,福音といやしを与えました。しかし,時は過ぎ,終わりを迎えます。弟子たちはイエスに群衆の解散を提案します。しかし,これは現実的なものではありませんでした。提案は常識的であるけれども,現実にはそぐわないものでした。私たちにはこの群集を養う力がない,ということです。しかし,イエスはこう命じます。「あなたがたで,何か食べる物をあげなさい。」しかし,弟子の答えは,わずかなものしかない,とのものでした。

3. イエスの奇跡
 しかし,イエスは奇跡を行います。この群衆を豊かに養うのです。イエスが神の子であることの明らかな証しとともに,何も持っていないかのように見える教会が,イエスによって豊かに祝福される姿がここにあります。イエスは,何も無から食物を生じさせたのではありません。何も持たざる人々の中から,それでもささげられた,たった5つのパンと2匹の魚。それが元手だったのです。

4. 教会の姿
 私たちの目にはわずかなもの,取るに足らないようなものであっても,それがささげられた時に,イエスはそれを祝福し,用いてくださる。まさに教会の姿です。何よりも,この奇跡の始まりは,イエスに付き従った群衆にあります。彼らは持たざる人々でした。しかし,彼らは,イエスにただ期待して,付き従た人々でした。わずかしか持っていないとしても,私たちに与えられているのは,救い主イエスの名なのです。

[考えるために]
 私たちもイエスに従っているでしょうか?
 私たちもイエスにささげているでしょうか?
 私たちはイエスに制限をつけていないでしょうか?

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2006年10月18日

2006/10/15礼拝メッセージ

2006年10月15日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章1~6節
「弟子の派遣」

1. 弟子の派遣
 この派遣は訓練のためでした。ルカはこのことを特に簡潔にまとめています。イエスは,弟子にご自身と同様の力と権威を授けて送り出されました。その目的は,「神の国を宣べ伝えるということ」「病を直す」ということでした。この二つのこともイエスの働きの本質であるといってもよいでしょう。イエスが弟子たちに命じられたのは,イエスの宣伝をしなさいということでも,多くの人々を私のもとまで連れてきなさい,ということでもありませんでした。彼らに託したのは,弟子たち自らが,神の国をのべ伝え,病を直す,ということだったのです。

2. 私たちの使命
 イエスは彼らに何も持たずに出て行きなさいと言われました。ただ彼らに与えられたのは,イエスの力と福音の言葉であったのです。それでは,今,私たちに与えられているものは何でしょうか。それは,「聖書」であり,「聖霊」です。この当時,悪霊を追い出し,病をいやすということが意味していたことは,「罪」ある生活からの解放です。私たちもまた,「罪」からの解放,神を中心としない生活からの脱却,主を礼拝する生活への転換という使命が与えられています。私たちが真に変えられるのは,神のみことばを中心とした生活へ向かうことから始まるのです。

3. どんな家であっても
 イエスは弟子たちに,「どんな家に入っても,そこにとどまり,そこから次の旅に出かけなさい」と命じられました。どんな家でも,そこで,福音を語り,罪からの癒し,解放をときなさいと,イエスは言われました。福音が語られる対象は「すべての人」なのです。しかし,イエスはそれと同時に,受け入れない人がいることも承知しています。そして,そのような人々に対しては,厳しい態度で臨むようにと言われています。私たちもまた,その現実を直視するとともに,それ以上にすばらしい福音の持つ希望,癒し,喜び,恵みをしっかりと携えて遣わされてまいりましょう。

[考えるために]
 私たちそれぞれが遣わされている場所はどこでしょうか?

投稿者 mb-church : 16:46 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月11日

2006/10/8礼拝メッセージ

2006年10月8日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章49~56節
「イエスの時」

1. 最悪の知らせ
 長血をわずらった女性とのやり取りに,どれぐらいの時間を要したのでしょうか。私たちは再びヤイロへと視点が戻されます。長く癒されることのなかった女性の病は癒されました。しかし,ここで,最悪の知らせが届きます。娘の死の知らせでした。この言葉を聞いた時の,ヤイロの気持ちはどうだったのでしょうか。

2. なぜ?
 私たちにもこのような瞬間があります。なぜあの時,神は助けてくれなかったのか?私の祈りになぜ応えてくれなかったのか?ここに来るまでに,すでにイエスは多くの癒しの奇跡を行ってきました。病をいやし,悪霊を追い出し,さらには,死者をもよみがえらせた。しかし,この絶望を前にして,そのような知識や情報など何の役にもたたなくなってしまったのです。すべての希望が失われてしまいました。この時のヤイロに誰がことばをかけることができたでしょうか。

3. イエスのことば
 イエスはこのときに,「恐れないで,ただ信じなさい。そうすれば娘は直ります」と声をかけられました。絶望に満たされたこの家に,救いを宣言することのできるお方こそ,イエス・キリストその人でした。この言葉どおりに,ヤイロの家族に希望が与えられます。

4. あなたに語られる福音
 私たちにはどうすることのできない「死」,「時」をも,イエスの手にあります。この時,イエスはごく限られた人々しか現場に招きいれませんでした。それは,福音が,不特定多数の人に語られたのではなく,イエスの目の前にいる人,ヤイロやその家族に直接語られたからです。私たちの目には,どうしよもなく映るその状況も,イエスはその手に治めておられます。私たちもまた,イエスの約束を信じ,どのような時にも希望を与えられる者とさせていただきましょう。

[考えるために]
 イエスはどのようなお方でしょうか。イエスの与えてくださるものは,何でしょうか?

投稿者 mb-church : 09:43 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月03日

2006/10/1礼拝メッセージ

2006年10月1日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章40~48節
「イエスへの信仰」

1. ヤイロの娘と病の女
 ヤイロはその娘の癒しを求めて,イエスのもとに来ました。そして,イエスに来て欲しいと懇願します。しかし,話はスムーズには進みません。そこに長血をわずらった女性の事件が起きてしまったのです。この女性は,おそらく汚れた人,罪人として扱われていたことでしょう。先を急いでいたイエスでしたが,この女性のために立ち止まったのです。

2. 女とイエス
 人々の前に出ることのできないこの女は,「お着物にさわることでもできれば,きっと直る」と考え,決死の覚悟でイエスの着物のふさに触りました。そして,彼女の病は癒されます。しかし,この話はこれで終わりませんでした。イエスは,その触った人を探し出そうとされたのです。イエスは,本当に誰が触ったのかわからなかったのでしょうか?おそらく,イエスは自分の着物に触ったのが誰であるか,そして何が起こったのかを知っていたことでしょう。知っていながら,イエスは,あえて誰かと問われたのです。この言葉の向けられた先は,長血をわずらっていたこの女性でした。彼女は,恐れに満たされながらイエスの前にひれ伏し,すべての民の前で事の次第を話すことになりました。これこそイエスが求めていたことだったのです。イエスは,この女性に,信仰の告白をさせ,さらには救いの確信を与えようとされたのです。

3. 私たちの応答
 ここから私たちは三つのことを教えられます。まず第一に,イエスにはいつでも与える準備があるということです。また第二に,イエスはその信仰をはっきりとさせる,ということです。そして第三に,キリストへの信仰は私たちを送り出す,ということです。私たちもまた,イエスを信じる信仰によって,安心して歩みをすすめてまいりましょう。

[考えるために]
 イエスを信じるときに,イエスはあなたに何と声をかけて,送り出されるでしょうか?

投稿者 mb-church : 10:40 | コメント (0) | トラックバック