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2006年09月28日
バージョンアップ
このサイトを構築しているMovableTypeのバージョンを,3.121から3.33にようやくバージョンアップしました。
と言っても,見た目は何もかわっていないのですが。
そのうち,デザインも変えてみたいと思います。
あ~つかれた・・・
投稿者 mb-church : 16:47 | コメント (0) | トラックバック
2006年09月24日
2006/9/24礼拝メッセージ
2006年9月24日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章26~39節
「救われた次第」
1. 待ち受けていた人
湖の向こう岸へと到着した一同を待ち受けていたのは,一人の悪霊につかれた人でした。ここで,その悪霊がどのような類のものであったかということは問題ではありません。問題なのは,この人が,例えようもない大きな苦しみを負っていたということです。
2. 絶望の淵で
この絶望に支配された男の前に,イエスはお立ちになります。これまで彼を助けようとする人などいませんでした。誰も近づかない。誰も同情などしない。しかし,イエスは彼の前にやってきました。しかし,この男の反応は「恐れ」でした。悪霊が語っていることが,人の罪の性質が語っていることであるとするならば,私たちもまた,イエスを前にしたとき恐れを抱くことでしょう。イエスによって,心の内が照らされ,内面がさらけ出されたとき,私たちもまた,これ以上苦しめないで欲しいと叫ぶことでしょう。
3. イエスのみ手
しかし,イエスはこの「恐れ」をしっかりと受け止められます。そして,悪霊は彼から出て豚の大群に入り,湖で溺れ死にます。ここに示されているのは,イエスの持つ罪,悪に対する圧倒的な権威と,この一人の罪人が,その長い間の束縛から解き放たれ,きよめられたという事実です。イエスは,彼の絶望,そして彼を縛ってきた古いものを完全に断ち切られたのです。
4. 人々の反応
しかし,そこに居合わせた人々は,その光景を見てイエスを拒否します。ここに,イエスを前にして,二つに分かれてしまった人々の姿が記されています。一方はこの狂人。そしてもう一方はこの目撃者たちです。私たちは,イエスを,私たちの罪の縄目から解き放つ救い主として受け入れるでしょうか。それとも,私たちを脅かす存在として拒否してしまうのでしょうか。イエスを受け入れる時に,私たちもまたこの一人の罪人と同様に,「正気」に戻ることができるのです。
[考えるために]
イエスの目には,この一人の男はどのように写っていたのでしょうか?
あなたの罪を断ち切るお方は誰でしょうか?
投稿者 mb-church : 15:18 | コメント (0) | トラックバック
2006年09月20日
2006/9/17礼拝メッセージ
2006年9月17日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章22~25節
「向こう岸」
1. イエスの誘い
イエスは弟子たちに「湖の向こう岸へ渡ろう」と誘われます。「なぜか」という理由はここに書き記されていません。しかし,イエスの方から,弟子たちをお誘いになったことは確かなようです。ことの始まりは,イエスの側からでした。
2. 湖上
弟子たちは,イエスの言葉に従います。その船の上で,イエスは弟子たちにすべてをゆだねているようです。ここでイエスは,全面的に私たちに舵取りをまかせています。しかし,そこに困難が起きたのです。突然の嵐。彼らの力では,どうすることもできない状況に見舞われます。すると,弟子たちは,慌ててイエスのもとに行きました。「先生。先生。私たちはおぼれて死にそうです。」
3. 信仰はどこにあるのか?
すると,イエスは起き上がり,風と荒波をしかりつけられました。驚くべきことに,嵐はすぐに止み,なぎになります。イエスはここで弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と問いかけられました。もちろん彼らは神を信じ,イエスをも信頼していたことでしょう。しかし,彼らの目には,目の前の状況しか映っていませんでした。実は,最初のことを起こしたのもイエスであり,委ねられたのもイエス,ともにいたのもイエスであり,ことを治められたのもイエスでした。最初から最後まで,振り返るならば,そこにイエス,神の存在を認めることができたのです。
4. さあ向こう岸へ!
向こう岸へ渡るには,嵐の待つ湖を渡らなくてはなりません。しかし,その湖をイエスとともに渡るならば,私たちはさらに深い神理解,イエス理解へと進むことができるでしょう。私たちもまた向こう岸へと渡らせていただきましょう。
[考えるために]
私たちの信仰はどこにあるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 09:10 | コメント (0) | トラックバック
2006年09月09日
2006/9/10礼拝メッセージ
久しぶりに土曜日に掲載します。
2006年9月10日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章19~21節
「わたしの家族」
1. イエスの言動
ここを読むと,私たちはイエスのその家族に対する態度に驚きを感じます。マルコの福音書にはこうあります。「わたしの母とは誰のことですか。また,兄弟たちとは誰のことですか。」イエス様のこの言動は,私的,個人的な行動ではありません。これは意図されたものであり,弟子や群集に向けたメッセージがそこに含まれています。特にルカでは,「神のことばを聞いて行う」ということに焦点が当てられています。
2. 神の家族とは誰か?
神の家族とは,神のことばを聞いて行う人のことだと語られます。家族という言葉は,当時のイスラエルにおいて,今以上に重い意味を持つ言葉です。それは彼らのアイデンティティーに深く関わりがありました。現代の私たちも同様の構造を持っています。自分がいったい何者なのか。それを規定し,特定しているのは,その人の家族や社会,仕事,また所有物などです。また他の人をもそのような視点で見ているでしょう。しかし,イエスはそのような基準とは異なる基準を示しました。神のことばを聞いて行う人。これがその基準です。
3. 神のことばを聞いて行うということ
みことばに聞いて,それを行う。限りなくシンプルですが,奥の深いことでもあります。そのために,私たちは神のことばである聖書に絶えず聞く必要があるでしょう。私たちは聖書を通して,神ご自身を教えられるときに,神のみこころを行う者へと変えられていきます。聖書を知れば知るほど,私たちは神を教えられ,そして神との関係は深まります。さらに,私たちは「祈り」へと開かれています。神ご自身を知ると同時に,祈りを通して,私たち自身のことを神に語り,委ねることが許されています。私たちはそのときに,すでにイエスの家族の一員となっているのです。
[考えるために]
イエスの家族とはどのような者たちのことでしょうか?
投稿者 mb-church : 18:19 | コメント (0) | トラックバック
2006年09月04日
2006/9/3礼拝メッセージ
2006年9月3日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章16~18節
「圧倒的なひかり」
1. みことばの光
良い地である人が,どのように歩みを進めるのか,そのヒントがここにあります。「あかり」とは「みことば」のことでしょう。「あかりをつける」というのは,正しい,良い心でみことば聞くということを指しています。私たちが,イエスを主とし,神のことばをまっすぐに受け取ること,それがあかりをつける,ということでしょう。
2. あかりをどうするのか?
みことばに生きるとは,どういうことでしょうか?私たちは,何を支えに生きているでしょうか,また,何を指針としているのでしょうか?私たちが日々の歩みを進めるときに,もしみことばの灯火がなければどうなってしまうのでしょうか?私たちは,みことばを高く掲げて歩むときに,それが本物の光であることを知ります。私たちは,この光を掲げる必要があるのです。
3. 真の光
光を輝かせるのは,私たちの努力ではありません。みことばの真理は,かならず明らかになります。知られるようになり,現れます。神の約束は必ず達成される。それは何よりもイエスご自身のことを指しています。イエスの宣教が進められ,十字架にまでたどり着く中で,必ず明らかにされる。そのみことばの光,福音の光は決して覆い隠せるものではありません。圧倒的な光なのです。
4. 聞き方への注意
ここでイエスは,聞き方への注意を与えています。みことばの真理を持つものは,さらに与えられ,持たないものは,いのちそのものを損じてしまう。それは4つの土地のたとえ話の結論と同じです。実がならずに終わる生涯となる。だからこそ私たちは,神のことばの現れであるイエス自身を求める聞き方を,聖書を前にしてさせていただたいのです。
[考えるために]
あなたはみことばを高く掲げているでしょうか?