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2006年07月26日
2006/7/23礼拝メッセージ
2006年7月23日のメッセージの要約です。
ルカの福音書7章1~10節
「立派な信仰」
1. りっぱな信仰とは?
皆さんが考える立派な信仰者とはどのような姿でしょうか。この百人隊長は,イエス様がその信仰を見て,立派だと言った人です。彼は異邦人でした。そして,彼はユダヤの長老たちからも信頼されていたことが分かります。しかし,なぜ,彼は自らイエスの前に来て,懇願しなかったのでしょうか?その理由は,彼の謙遜さにあったことが,その言葉から分かります。ユダヤ人の指導者たちは,来てくださいとお願いしたにもかかわらず,彼は来なくてよいとイエスに伝えたのです。
2. 百人隊長の考え
なぜユダヤの指導者たちは,来てくださいと頼んだのでしょうか?百人隊長は,おそらく「イエスのことばを聞いてきてください」と彼らに頼んだことでしょう。しかし,長老たちは,イエスの言葉よりも,実際に来てもらおうことを重く見ていたようです。その考えの違いは,どこから生ずるのでしょうか。
3. 権威の所在
百人隊長は,イエスの「権威」をはっきりと意識していました。イエスの権威。すでにここに来るまでに行われていた癒しの業によって,圧倒的なイエスの権威は示されていました。しかし,周囲の人々は,まだイエスが誰なのか,どこから来た方なのかを正確には悟ってはいませんでした。しかし,百人隊長は,イエスの権威がどこから来るものか,そして自分にとって,イエスがどのような存在であるかをはっきりと知っていました。彼は,イエスをこう呼んでいます。「主よ。」 百人隊長は,主イエスの言葉だけで十分であると確信していました。彼はイエスの言葉は必ず成ると信じ,そしてその信仰を実行に移した人だったのです。
[考えるために]
あなたはイエスを誰だと告白しますか?
あなたはイエスの言葉を受け取っていますか?
あなたはイエスの言葉を大胆に求めていますか?
投稿者 mb-church : 10:09
2006年07月20日
2006/7/16礼拝メッセージ
2006年7月16日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章43~49節
「わたしのことばを行う者」
1. あなたは実行する者ですか?
今日のテーマは「あなたは実行していますか?」ということです。しかし,聖書では,信仰による義が明らかにされています。この真理には混ぜ物はゆるされません。私たちが罪赦され,救われるのは,行いによるのではなく,十字架の贖いを信じる信仰のゆえに,義と認められます。しかし,私たちに新たな課題が与えられます。それは,赦され義とされた者として,どう生きるのか,という課題です。
2. 新たな課題
救いは,与えられた新たないのちを,神とともに生きるという新たな課題へと私たちを向かわせます。ですから,私たちに与えらた信仰は,それを実践し,発揮していくときに,そのすばらしさがより明らかになっていきます。私たちの信仰が,口先だけのことになってはいないでしょうか?神に願いはする。しかし,キリストの言う事を,真剣に実行しない者となっていないでしょうか?
3. 実行する者となるために
しかし,ここで見落としてはならないのは,イエスのことばです。それは,ただ実行するだけではなく,重要なことは,私たちの信仰の土台をどこに,そしてどのように置くのか,ということだと言うのです。私たちの土台をしっかりと据えるために,私たちは地面を深く掘り下げる必要があります。そのために,みことばをしっかりと私たちの内に息づかせる必要があります。みことばをただ読むのではありません。みことばをしっかりと聞き,悟り,与えられた福音の恵みを深く知る。私たちは,絶えず福音の恵みを,自分自身に宣言していく必要があります。私は,すでに罪に死に,そこから離れ,福音の恵みに生きるものであると宣言するのです。そのために,私たちは絶えず,聖書のみことばに聞き,学び,そして生きる訓練へと向かっていくのです。
[考えるために]
あなたはキリストのことばを実行するものでしょうか?
あなたの土台はどこに,そしてどのように据えられているでしょうか?
投稿者 mb-church : 15:26
2006年07月11日
2006/7/9礼拝メッセージ
2006年7月9日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章39~49節
「十分な訓練」
1. 人を愛すること
私たちは,敵対する人を愛するように,と導かれています。その具体的な姿はいかなるものでしょうか。それは「裁かない」ということに集約されています。私たちは人を裁きやすいものです。それは行きつくところ「自分」にしか基準がないからでしょう。ここでイエスは私たちに命じています。あなたは自分だけを基準にしてはならないと。
2. たとえ
私たちの現実の滑稽な姿がたとえを通して語られています。盲人に盲人の手引きができるだろうか?自分の目にある梁には気がつかないのはなぜか?神の視点から見るならば,私たちの姿はこのたとえのようなものです。いずれにせよ私たちが,もし人を裁いているのであれば,それはイエスの姿とは到底離れたものであると言わざるを得ないのです。
3. 十分な訓練
このような裁かないものとなるには,つまり神の視点を持つには,十分な訓練を受けなくてはなりません。訓練とはどのようなものでしょうか。それは「自分の目から梁を取り除けること」です。私たち自身の目から梁を取り除けることから,その訓練は始まります。
4. 二つのこと
そしてその訓練は,次の二つにまとめることができます。第一に「私たちの心を良くする」ことです。それはただ良い人になるのではなく。キリストを中心にして生きる,イエスの心を持って生きることです。第二に「キリストの言うことを行う」ことです。できるかできないかではなく,キリストの教え-あなたの敵を愛しなさい-を実行することです。信仰者としての訓練とは,キリストの心を持って,キリストが命じてくださったことを実行すること。私たちの前提は訓練されていない者です。しかし,私たちは,この訓練を受けるとき,キリストの大使として成長していくのです。
[考えるために] キリストの訓練とは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 16:53
2006年07月06日
2006/7/2礼拝メッセージ
更新したつもりで忘れてました。
2006年7月2日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章31~38節
「自分のしてもらいたいとおりに」
1. 黄金律
「あなたのしてもらいたいことを,他の人にする」という教えは,黄金律とよばれるものです。よくこれをこのように言い換えて理解することがあります。「自分のして欲しくないことは相手にもしない。」しかし,イエスが言っていることは,このあり方とはちょっと異なるようです。「して欲しくないことをしない」というのは,他者との消極的なあり方です。何もしないなら,しなくてもいい,ということにもなるでしょう。このような人間関係は,暖かい雰囲気や赦しあう雰囲気を持つことができません。
2. 神のあり方
私たちは,本来,他者と消極的な関係を持つように創造されてはいません。なぜなら,私たちは「神のかたち」に創造されているからです。三位一体の神,父なる神,子なるキリスト,聖霊なる神の互いの関係は,消極的な関係で結ばれているのでしょうか。キリストは,いつでも父と結び合い,聖霊に導かれて歩まれました。互いに深く関わりあうとき,他では得ることの出来ない深い満足と喜び,安心が私たちに与えられます。しかし,その一方で,罪ある私たちは,人間関係から深く傷つきもします。その罪ゆえに,積極的なあり方へと向かうことができないでいるのです。
3. キリストのすすめ
キリストは,私たちに積極的な関係の中で生きるようにすすめています。それが,あなたのしてもらいたいことを,他の人にしなさい,ということです。この積極的な関係の前提は,私たちが,キリストによって赦され,神と和解していることの確信がなければなりません。私たちが,神によって赦されているだけではなく,相手もまたキリストの十字架によって解決が与えられるのだ,という信仰が私たちの立つ所なのです。神が私たちに与えているあふれるばかりの恵みに気がつくならば,私たちは与える者へと変えられていくことでしょう。
[考えるために]
私たちの他者との関係は積極的なものでしょうか?
投稿者 mb-church : 12:35