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2006年06月26日

2006/6/25礼拝メッセージ

2006年6月25日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章27~35より
「敵を赦すということ」

1. 高い基準
 あなたの敵を愛しなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。敵とは,自分をのろう者であり,侮辱する者のことです。そして,その敵対する人に対して,愛しなさい,祝福しなさい,祈りなさい,とすすめられています。これは簡単なことではありません。さらに,イエスはこのように命じておられます。すべて求める者には与えなさい。私たちは,自分に敵対する人に,与えることができるのでしょうか?

2. あなたの敵
 ここで,意図されているのは「敵」との和解です。イエスが弟子たちに命じたのは「博愛主義者になりなさい」ということではありません。キリストの大使として遣わされることの意味を解き明かしたのです。それは,私たちの間にある敵対的な関係を修復することです。私たちの中にあるいいようもない「怒り」。この「怒り」は私たちに深刻な影響を及ぼしています。私たちは本当のところ,人を赦すことができてはいない者たちなのです。

3. 赦されているのは誰なのか?
 私たちのうちにはこのような相手を赦せない罪があります。その罪は,自分だけに止まらず,相手にまで影響してしまうものです。このような罪は,表面に出てくるものだけではなく,私たちの気がつかない心の奥底,深層にまで及んでいます。しかし,イエスは私たちに言います。「あなたの敵を愛しなさい」と。この言葉を実現するためには,まず私たちが赦されるべき者であり,そして赦されているということを知らなくてはなりません。鍵は「十字架の赦し」です。私たちは,十字架によって,神に敵対するものから,神に赦されたものへと変えられます。この私こそ神に赦されなければならない人であり,さらには既に赦されているということ。だからこそ,私たちは相手を赦すものとして,キリストの大使となることができるのです。

〔考えるために〕
 あなたは神に赦されていることを信じますか?
 あなたには和解すべき人が,今いるでしょうか?

投稿者 mb-church : 15:36 | コメント (0) | トラックバック

2006年06月23日

たまには・・・

たまには,メッセージ以外のことも。
というのも,先日の日曜日には,KGK(キリスト者学生会)の安藤理恵子主事に礼拝メッセージをしていただいたので,要約のアップがしたくてもできないのです!

もちろん安藤主事のメッセージは,聖書がダイレクトに語られて,本当によい時となりました。感謝です!

そして,この夏。
毎年のようにサポートをさせていただいているKGK夏期学校に,私,講師として招かれています。
テーマは,「Sinking Thinking」。
#正確に発音できません・・・

罪を明確に語るべし!とのこと。
今から祈りつつ,聖書を開き・・・頭を抱えています。
主が語ろうとされているみことばがどこなのか,逸る気持ちを抑えつつ,待ち望んでおります。お祈りいただければ感謝です。

そして,今週24日(土曜日)14:00からは,「もっとKGKを Part3」がOCC 8Fで開催されます。KGKの関東地区協力会主催のイベントです。
KGKって一体なに?と思われた方は,ぜひお越しください。
学生,OBの証,そして,美味しい茶菓を用意してお待ちしております。

もちろん,真砂教会の礼拝にもどうぞ!
毎週日曜日午前10時からです。

ということで,今日は宣伝でした。

投稿者 mb-church : 10:47 | コメント (0) | トラックバック

2006年06月11日

2006/6/11礼拝メッセージ

2006年6月11日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章20~26より
「幸いな者,哀れな者」

1. 平地での説教
この箇所は山上の説教を彷彿させます。しかし,ここは山上ではありません。また,幾つかの違いもあります。当然,どちらも同じ説教者であるイエスが語っているわけですから,同じような内容であることは,不思議ではありません。むしろ,繰り返し,重要なことを,人々に伝えていたと考えることができるでしょう。ここでは,特にイエスは弟子たちに語りかけています。

2. 幸いな者,哀れな者
ここでは,幸いな者が4つあげられています。その一方で,哀れな者も4つあげられています。ここにも,ルカの福音書の特徴であるコントラストが見られます。5章でも,同様に二つの者が対比されていました。それは「正しい者」と「罪人」です。そして,この箇所の対比の中心は22節と26節です。つまり,人の子のため,つまりキリストの名のゆえに,私たちが苦難を通り,迫害を受けるそのとき,私たちは幸いである,と語られているのです。

3. キリストのゆえに
私たちは,キリストの真理に立ち,その義を求めるときに,この世とは異なるスケールを持つことになります。預言者たちもまた,神のみこころ,神の義を,人々に指し示す役割を与えられた人々でした。そのために,かえって人々からうとまれ,除外され,命の危険にさらされました。彼らは,イスラエルの民の中に巣くう偶像礼拝や,神を神としない生き方,偽りを告発したのです。私たちもまた,キリストの前に,二つの道を問われています。私たちは,まことの神を失い貧しい者,飢えた者,悲しむ者か,それとも,まことの神を失っているのにもかかわらず,富んでいる,満ち足りている,幸せだと,思い込んでいる哀れな者,そのどちらなのでしょうか?私たちが,変わらずに信頼を置くべき所は,まことの神,キリストなのです。

[考えるために]
 私たちが,もしキリスト抜きで生きるとしたら,どのような人生になるのでしょうか?

投稿者 mb-church : 16:44 | コメント (0) | トラックバック

2006年06月04日

2006/6/4礼拝メッセージ

2006年6月4日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章12~19より
「使徒の任命」

1. 使徒
 ペンテコステは教会の誕生日だと言われています。イエス・キリストはもういません。しかし,弟子たちは,内に働く聖霊とともに新たなスタートを切りました。彼らは「使徒」と呼ばれました。,この箇所には,12人が「使徒」として任命された時のことが記されています。ここは,教会にとって歴史的な箇所なのです。

2. イエスの任命
 この12名は,イエスの代理者という意図がありました。彼らに関しては,情報が多く残っている者と,ほとんどない者とが混ざっています。そのバックグラウンドも様々でした。そして,その多くがガリラヤ出身という名もない人々でした。イエスは,いったいどのような考えで,12人を選び出したのでしょうか。イエスは,祈りの中で決断し,そして,彼らを自ら呼び寄せ,使徒として任命されました。

3. 任命から派遣まで
 使徒として行動するのは,ペンテコステの日を待たなくてはなりませんでした。しかし,イエスは,この12人を選ばれ,働きを託すために,彼らを訓練しました。キリストは生きている間,伝道者として成功をしたわけではありません。神の国を説き,ご自身がその礎石として十字架に架かるまで,イエスは,弟子に対して,彼らに十分な訓練を与えました。そして,イエスは「使徒」という,すばらしい成果を残したのです。

4. 弟子からキリストの大使へ
 私たちは,キリストに従うときに,キリストの弟子となります。その選びの基準は,私たちにあるわけではありません。しかし,この先があります。私たちは,キリストの弟子として,キリストの教えの上に,しっかりと訓練を受けているのだろうか,ということです。12弟子たちは,イエスとともに歩むなかで,幾つもの挫折や痛みを通して訓練され,キリストの大使として遣わされるまでに成長します。私たちも,使徒たちと同様に,訓練され,遣わされてまいりましょう。

[考えるために]
  あなたはキリストにある成長を求めているでしょうか?

投稿者 mb-church : 16:42 | コメント (0) | トラックバック