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2006年05月30日
2006/5/28礼拝メッセージ
2006年5月28日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章6~11より
「安息日の主Ⅱ」
1. 安息日のイエス
キリストは,宣教活動に出られてから,いったい何回の安息日を守ったのでしょうか?ここまでの記述で気がつくのは,イエスが安息日に宣教活動をしている,ということです。これまでの安息日とは,別のことが起こりつつあることを,人々は感じとっていたことでしょう。そして,律法学者,パリサイ人たちもまた,そのことが何であるかを見極めようと,イエスの前に集まってきたのです。
2. 安息日の主
前回,イエスは,神のみこころが何であるかを,ダビデの姿を通して明らかにしました。そして,キリストはさらにそのことを「右手のなえた人」の手をいやすことによって,具体的に公に示そうとされます。安息日の主のこころは,神に従う哀れな人に向けられました。しかし,敵対者たちは,イエスを訴える口実を,ここに見出しました。安息日には,すべてを止めなければならない,彼らはそれこそが神にある最善と考えていたのです。
3. 真によいこと
イエスは彼らに問いかけます。「安息日にしてよいことは,善を行うことなのか,それとも悪を行うことなのか。」ここでイエスの見ている最善と,敵対者たちの見ている最善とが,異なっていることに気がつきます。イエスの視線は,自分のことばに従い,自分の前に来た,このあわれな手のなえた人に注がれていました。しかし,律法学者,パリサイ人たちの視線は,この手のなえた人にではなく,自らの正しさを示すことにのみ注がれていたのです。私たちの視線は,どこに向けられているのでしょうか。そして,最善は,どちらの側にあるのでしょうか。
[考えるために]
安息日の主のみこことは何でしょうか?
神にある最善とは,どのようなものでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:40 | コメント (0) | トラックバック
2006年05月22日
2006/5/21礼拝メッセージ
2006年5月21日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章1~5より
「安息日の主Ⅰ」
1. 安息日規定
パリサイ人のイエスへの質問を理解するには,当時の背景を知る必要があります。パリサイ人たちは,安息日にしてはならない規定を数多く作り,その規定を実践していました。この規定において,パリサイ人たちはイエスたちの行動を非難しました。その一方で,彼らは禁止事項にふれないように,多くの抜け道をもつくっていたのです。
2. イエスの応答
イエスは彼らの非難に対して,旧約聖書のダビデ王の記事を引用して答えました。なぜ,これが答えになったのでしょうか。この箇所を読む限り,律法の規定によれば,ダビデは有罪と言ってもいいでしょう。しかし,ダビデは断罪されませんでした。ダビデは王であり,その命がかかったこの非常時は例外であったからでしょうか。イエスは,ここでご自身が「安息日の主」であることを示し,このダビデよりもさらに上の者であることを明らかにしています。
3. 安息日の主
安息日とはいかなる日のことでしょうか。安息日は,創造のみわざを神が完成された後,一切を休まれた日です。私たちが働きを止めて,安息し,主の働きに感謝する日として,安息日が制定されました。私たちは,その安息の中で回復します。しかし,このときのパリサイ人は,安息日の本質的な意味を失い,自分の正しさを示す日として,安息日をとらえていました。
4. 主にある安息
イエスは,王であるダビデがしもべたちに対してとった安息日のあり方を通して,安息の本質を示しておられます。安息日は,ただ私たちが日ごとの疲れをいやすというだけではなく,神が,この飢えた貧しいこの私に関わってくださり,力強いみ手をもって養い,救ってくださる日です。飢え乾いている人に,食物を与え,そして安らぎを与え,回復を与える。これこそ,安息日の主が,私たちに与えようとしておられることなのです。
[考えるために]
私たちの安息日の過ごし方はどうでしょうか?
安息の主が,私たちに与えようとしているものは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 08:56 | コメント (0) | トラックバック
2006年05月17日
2006/5/14礼拝メッセージ
昨日まで大阪に出張していました。
お好み焼きも食べましたよ。
遅くなりましたが,礼拝メッセージを更新します。
2006年5月14日のメッセージの要約です。
ルカの福音書5章33~39より
「古い?新しい?」
1. 比較
ここでイエスは非難を受けています。このような非難は,私たちの最も得意とするところです。つまり人との比較です。ここで,彼らが比較しているのはイエスとバプテスマのヨハネです。ここで問題なのは,パリサイ人たちは,なぜヨハネの弟子たちは正しいと判断しているか,です。その根拠は,自分たちの正しさにありました。
2. キリストを前にして
彼らは,真に正しい方を前にして,自分たちの正しさを証明しようとしています。一見,彼らの主張は正しいように見えます。しかし,イエスのたとえ話は,彼らの欺瞞を明らかにします。目の前に花婿である救い主がいるにもかかわらず,彼らの目は曇ったままだったのです。結局のところ,彼らは,イエスをキリストだと認めることができなかったのです。
3. 古い物と新しい物
彼らは目の前にある真実に,目を向けようとはしませんでした。そのことをイエスは,別のたとえ話によって明らかにしました。彼らの心は「古いまま」であると。この箇所にある「新しい」とは,見た目の新しさではありません。この新しい物とは,キリストご自身のことであり,神ご自身の基準です。それは単なる古い新しいの問題ではありません。問題は,あわない入れ物に,無理に新しい物を注ぎ込もうとすることです。つまり,自分たちの基準に,イエスを,神を閉じ込めようとすること。キリストが目の前にいるにもかかわらず,彼らは自分たちの考えをまげようとはしなかったのです。私たちが,自分の基準,自分の正しさに固執するならば,私たちは救い主イエス・キリストが目の前にいるにもかかわらず,そこを素通りしてしまうことになるのです。
[考えるために]
あなたは,キリストを前にして,心をかたくなにしてはいないでしょうか?
内に働く聖霊によって,新しい皮袋を持たせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 13:01 | コメント (0) | トラックバック
2006年05月08日
2006/5/7礼拝メッセージ
2006年5月7日のメッセージの要約です。
ルカの福音書5章27~32より
「罪を赦す権威」
1. レビとの出会い
今日のテーマは,イエスは誰を招こうとしているのか?ということです。しかし,この箇所を読むと,このテーマとは逆のことが起きています。なぜなら,ここではイエスが招かれているからです。イエスは一人の収税人に目を留めて,「わたしについて来なさい」と声をかけられました。すると,彼は全てを捨ててイエスに従いました。この時が,彼の信仰の出発でした。そして,レビは,自分の家にイエスを招いて大盤振る舞いをし,多くの人々を招きました。
2. 多くの人々
招かれた人々は,収税人仲間であり,当時,罪人だと認識されていた人々でした。彼らの人柄や人格は関係なく,その表向きの職業,血筋から,罪人と認識されていた人々です。その状況を見て,パリサイ人たちはつぶやきました,内側よりも,外側から人は汚れる,と考えていたのが,パリサイ人たちでした。
3. イエスの招き
しかし,イエスは,その彼らにこう答えます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく,病人です。」イエスは,病人,罪人のところに来ました。しかし,ここで問題なのは,誰が丈夫な人なのか,ということです。ここにはこの言葉を添えて理解する必要があります。それは,自分が丈夫だと思っている人,自分で正しい人だと思っている人。イエスは,自分は病人だ,医者を必要としているのは私だ,私は本当に神の赦し,あわれみが必要だ,そう思っている人のところに来られました。聖書は私たちにこう語ります。「医者を必要としない人はいない。」神の前に正しいと立つことの出来る人は一人もいません。イエスは,今日も私たちにレビのように目を留めて,そして声をかけてくださっています。これがイエスの招きです。あなたはこの招きにどう応えるのでしょうか?
[考えるために]
聖書は私たちのことをどう語っているでしょうか?
あなたはこのことをどう受けとめるでしょうか?