« 2006年03月 | メインページへ | 2006年05月 »
2006年04月30日
2006/4/30礼拝メッセージ
2006年4月30日のメッセージの要約です。
ルカの福音書5章17~26より
「罪を赦す権威」
1. 論争の火種
彼らの信仰を見て,イエスは病人に「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。このことばが論争のきっかけとなります。「罪を赦す」ということは,神以外にその権限はないと,当時の宗教家は考えていたのです。
2. 内なる矛盾
しかし,これはおかしな話です。というのも,律法学者,パリサイ人たちは,心の内において(外側においても),この病人は罪人だと判断し,また自分は罪人ではないと自分たちで考えていたからです。神以外には,罪を赦す権威がないと考えながら,誰が罪人かは,自分たちで決めていたのです。神と言いながら,基準は自分にあり,,また他者との比較の中で,その基準を定めていたのです。
3. イエスの挑戦
ここで,イエスは彼らに挑戦します。「あなたの罪は赦された」というのと,「起きて歩け」と言うのとどちらがやさしいか?「あなたの罪は赦された」というのは理屈から言えば不可能なことです。しかし,これをことばにして言うことはできるでしょう。また一方の「起きて歩け」も理屈から言えば不可能なことです。重病人に対して,起きて歩けということも無理な注文です。しかし,この問いは,そのことばが現実となるかどうかは,誰が見ても分かることでした。
4. 権威の証明
イエスはなぜこのような挑戦をしたのでしょうか。それは,ご自身が,神と等しく,罪を赦す権威を持っていることを明らかにするためでした。そして,イエスは中風の人を立たせました。イエスは病をいやす権威を持っていることを,人々に証明したのです。しかし,イエスが示されたのは,それ以上のことです。イエスが持っているのは,神と等しい権威,人の罪を赦す権威なのです。
[考えるために]
キリストの持つ権威とは何でしょうか?
クリスチャンに与えられる歩みとは,どのようなものでしょうか?
投稿者 mb-church : 16:39 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月23日
2006/4/23礼拝メッセージ
2006年4月23日のメッセージの要約です。
ルカの福音書5章17~26より
「彼らの信仰」
1. 状況
イエスはとある一人の病の人を癒します。これもカペナウムでのことでした。大勢の人々が集まってきていたようですが,この中にパリサイ人と律法学者も混じっていました。すると事件はおこります。何とイエスがいた家の中に,突如,病人が運び込まれたのです。それも屋根のかわらをはがして。しかし,なぜ人々は重病人が入れるように,どいてあげなかったのでしょうか?
2. 行動
癒しを必要としている人が,中に入ることができませんでした。この病の人も,「罪人」として扱われていたのでしょうか。しかし,この4人は,何とかイエスの前にこの人を連れて行こうとして,屋根に穴をあけるという行動に出るのです。常識外れかもしれません。しかし,彼らにはそれ以上の熱意と信仰がありました。彼らは行動に出たのです。
3. 彼らの信仰
イエスは彼らの信仰を見て,このように宣言しました。「友よ。あなたの罪は赦されました。」病の人を連れてきた人々の反対側にいるのは,パリサイ人,律法学者です。そのパリサイ人,律法学者は,理屈を言い始めます。この病の人のことなど,彼らの目には入っていないようです。それよりも,自分の考えや,自分の正しさの方が,彼らにとっては重要なことでした。すぐそばに病の人がいたにもかかわらず,その人を入れようともしなかったのです。イエスはこの彼らの信仰を見て,罪の赦しをあたえたのです。
4. あなたにとって
イエスの前に愛する家族,愛する友を連れて行くときに,その人々を,イエスは必ず救ってくださいます。この箇所からその励ましを私たちは受け取ることができるでしょう。そして,今,私たちは,どうしてもイエスの前に連れて行きたい,そう願う人がいるでしょうか。
[考えるために]
屋根をはがしてまで,イエスの前に連れて行く,そのようなキリストへの信仰があるでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:17 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月15日
2006/4/16礼拝メッセージ
2006年4月16日のイースター礼拝のメッセージです。
ルカの福音書5章12~16より
「死人にいのちを与える方」
1. 全身ツァラアトに冒された人
全身がツァラアトに冒された人。これは相当インパクトのある書き方です。現代のことばで直すとどうなるでしょうか。それは最も死に近い人,と言ってもいいでしょう。神に見捨てられた死。最も人々が嫌う死の姿がそこにありました。しかし,この人は,その姿を隠すことができませんでした。全身がツァラアトに冒されていたのですから。
2. 告白
そこに,イエス・キリストが来られました。彼は,ひれ伏してお願いします。「主よ。お心一つで,私をきよくしていただけます。」生きながら死んでいると言っても過言ではないこの人は,イエスを主と告白し,自分自身を明け渡します。いったいどのよう人が,神の前に義とされるのでしょうか。誰が真にいのちあるものなのでしょうか。この名前も記されない病の人に,イエス様は御手をのばされました。
3. 死者をよみがえらせる方
ツァラアトに冒された人を癒すということは,死者をよみがえらせるに等しいことです。全身が汚れていることは,誰が見ても分かることでしたが,さらにこの人は,自分の全てをイエスの前に投げ出しました。このような人こそ,神が義と認めてくださる人です。イエスは,彼に手を伸ばし,触れ,そして宣言されました。「私の心だ。きよくなれ」と。
4. 新しいいのちへ
私たちが自分の罪を認め,そしてキリストの前に全てをさらけ出し,ゆだねるときに,イエスの方から,私たちがきよめられることを望んでくださいます。この人は完全に癒されました。しかし,私たちに神が与えようとしているのは,単に病が癒されることではありません。神が望まれているのは,神を礼拝するものとして生きることです。この人に与えられたのは,ただの癒しではなく,救われた者として,神に感謝をささげて歩む生涯が開かれたのです。
[考えるために]
キリストが望まれているのはどのような態度でしょうか?
生きる死者であったこの人は,どのようにかえられたのでしょうか?
投稿者 mb-church : 16:48 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月08日
2006/4/9礼拝メッセージ
2006年4月9日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書5章1~11より
「おことばどおりに」
1. ペテロ
イエスは最初の弟子を呼び寄せました。イエスの最初の弟子がどのように決断したのか,それは最初の教会においても大きな関心ごとの一つでした。この出来事は,カペナウム伝道の最中のことです。イエスは悔い改めと,ご自身を通して実現していく「神の国」を語っていたことでしょう。シモン・ペテロもこのメッセージを耳にしました。
2. 信仰の第一歩
シモンにとって,イエスは「先生」の一人でした。まだこの時点では,自分の人生に関わり始めてはいるが,まだそれ以上の存在ではありません。しかし,そのシモンに対して,イエスご自身から関わろうとされます。「深みに漕ぎ出して,網をおろして魚をとりなさい。」シモンにとっては,この言葉は驚くべき言葉でした。ここで,私たちはシモンの驚くべき行動の一端を垣間見ます。彼は,自分の誇り,考え,常識,それらを脇において,「でもおことばどおり,網をおろしてみましょう」と言うのです。ここに,シモンの信仰の第一歩を見ることができます。
3. 神への恐れ
信仰の第一歩は,聖書にある言葉どおりに私たちが受け止め,行うところから出発します。そしてこの第一歩にイエスはすばらしいみ業を持って応えられました。ここで,「先生」という呼びかけから,「主よ」という言葉へと変わっていることがわかります。ペテロは,イエスが単なる教師ではなく,自らのすべてを持って応えなくてはならない主であるということに気付かされたのです。そして,彼が抱いたのは,「恐れ」と「自らの罪深さ」でした。私たちが,信仰の一歩を踏み出していくときに,次に気付かされるのは,神への恐れと罪深さなのです。
4. イエスの導き
神を恐れない人,神を神と思わない人は,自分の罪を知ることはありません。しかし,神を信じ,恐れを抱いたシモンに対して,イエスはこのように語りかけられました。「こわがらなくてもよい。これから後,あなたは人間をとるようになるのです。」イエスは,恐れなくてもよい,あなたには使命があるのだ,あなたは私とともに行くのだ。そうイエスはペテロに語りかけられました。私たちが信仰の一歩を踏み出すときに,シモンと同じように必ずイエスは励ましと,導きを与えてくださるのです。
[考えるために]
シモンにとっての信仰の一歩とは何だったのでしょうか?また次に彼が気付かされたこととは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 23:06 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月01日
2006/4/2礼拝メッセージ
2006年4月2日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書4章38~44より
「どうしても」
1. 助けを請う人々
「黙れ」という一言で,イエスは悪霊につかれた人をいやしました。続いて,イエスはシモン(ペテロ)の家に向かいます。そこに到着するとペテロのしゅうとめが熱で苦しんでいました。あの権威を持ってすれば,このひどい高熱も何とかなるのではないかと人々が思うのは当然のことしょう。するとイエスは高熱をしかりつけられた,というのです。そして悪霊と同様に,高熱は退散し,女性はいやされました。
2. 人々の驚嘆
この数時間のうちに起こった出来事は,人々を驚嘆させるには十分なものでした。日が暮れると,人々は,病人や悪霊につかれた人々をイエスの前へと連れてきました。救いを必要としている人々を,イエスのもとへと連れてくるという素朴な教会の姿を,ここに見ます。イエスは一人一人に手を置きいやされます。これこそ教会,伝道の原点と言えるでしょう。救いを必要としている一人一人を,イエスの前に連れて行き,イエスに手を置いていただくのです。
3. 群衆
朝になると群衆がやって来ます。一人一人を連れてきた人々が,今度は群集となっておしよせてきました。彼らは,イエスが自分たちから離れていかないように,引きとめにきました。しかし,イエスはこのことをよしとはしませんでした。なぜならイエスは「どうしても」行かなくてはならなかったからです。イエスはただ現世的な幸福を与えに来たのではなく,神の国の福音を伝えるために来ました。何よりも私たちを救うために,どうしても十字架にまで向かわなくてはならなかったのです。キリストは,ただ一人の罪人のために来られたのです。
[考えるために]
なぜイエスは「どうしても」と言ったのでしょうか?イエスが来られたのは誰のためですか?