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2006年03月26日

2006/3/26礼拝メッセージ

2006年3月26日の礼拝メッセージです。
使徒の働き2章46, 47より
「喜びと真心をもって」

1. 初代教会の姿
 初代教会の様子が記されています。神への恐れ,不思議としるし,一切のものを共有すること,分かち合うこと,ともに集い,パンを裂き,食事をし,賛美をし,そして次々に教会に人々が加えられていったこと・・・。ここから新年度に向けて,2つの大事なポイントを見ることにしましょう。

2. 神への恐れ
 まず第一に教会には「神への恐れ」がありました。この恐れは,ペテロの説教を聞いて,「心を刺された」人々の抱いたものでした。彼らは,イエスを十字架につけたのは自分たちであることに気付き,神の前に罪人であることをはっきりと自覚したのです。初代の教会は,形式こそユダヤ教と同様のものだったことでしょう。また,資産や持物を売って共有していたことも,特に珍しいことではありません。しかし,本当に重要なことは,彼らが何に揺り動かされて,このことを実行したのか,ということです。彼らは,神を恐れる人々だったのです。

3. 交わり
 第二に,彼らは交わりをもっていた,ということです。彼らは,毎日集まっていました。彼らは集まって何をしていたのでしょうか。彼らは,宮に集まり礼拝をしたことでしょう。さらには家々でも交わりを持っていました。そこではキリストの十字架を覚えるパン裂きが行われました。イエスの十字架の恵みを絶えず共有していたのです。そしてともに「喜びと真心をもって」食事をしました。「真心」とは何でしょうか。この言葉には,純真さや気取りのなさという意味があります。ともに食事をするときに,弟子たちはともに食したイエスの姿を思い起こしていたことでしょう。イエスにある喜びと気取りのなさ。これこそイエスにある交わりの姿です。

4. 人々の目に
 この教会の姿は,周囲に好意を持って受け入れられました。さらに毎日救われる人々が加えられていきました。なぜならそこには赦しがあり,励ましがあり,何よりもイエスがおられたからです。私たちも生きたイエスの姿を宮から家々へと,そして互いへと分かち合っていきましょう。

[考えるために]
 教会の基礎は何でしょうか。喜びと真心からなる交わりとはどのようなものでしょうか。

投稿者 mb-church : 00:23 | コメント (0) | トラックバック

2006年03月18日

2006/3/19礼拝メッセージ

久しぶりの更新です。

2006年3月19日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書4章31~37節より
「イエスの権威」

1. 汚れた霊
 イエスは,カペナウムで汚れた悪霊につかれた人を癒します。悪霊?なんて非科学的!と思う方もいるかもしれません。聖書は,悪霊の存在を否定していません。それは,神から私たちを引き離す力が確かにこの世界にあることを,はっきりと示しているからでしょう。しかし,聖書は当時の人々の感性にしっくりくるように書かれてもいます。当時,病は,悪霊によるものと民衆には説明され,また理解されていました。この現代では,また別の説明を加えることができるかもしれません。しかし,本質的に,神から私たちを引き離す力があるということには,変わりはありません。

2. この世界をどう見るか?
 それでは,私たちは病や不幸をどのように説明し,受け止めているでのでしょうか。当時の人々は,ほとんどのことを悪霊やサタン,そして神々のなせる業であると考えていたことでしょう。しかし,聖書はそのような見方とも,異なる見方をしています。聖書は,圧倒的に神が,そしてイエスが全てのものの上にある,と語っています。聖書は,私たちの力の及ばないところ,いえ,私たちの力が届く,届かないにかかわらず,全ての面において,神の権威と力が及んでいることを,私たちに教えているのです。

3. イエスの権威
 神は,科学的,非科学的という枠組みを超えています。この箇所に繰り返されているのは,イエス(のことば)の持つ権威です。私たちを神から引き離す力は確かにあります。すでに私たちはその力に取り込まれているかもしれません。しかし,イエスはそれらの力を一言で静まらせます。「黙れ。その人から出て行け。」ここにイエスの権威が凝縮されています。それは全てのものの上に立つ権威なのです。私たちもこの方によって,神へと向かうことができるのです。

[考えるために]
 私たちは,イエスの権威,ことばに,全服の信頼を置いていきましょう。

投稿者 mb-church : 21:21 | コメント (0) | トラックバック

2006年03月08日

2006/3/5礼拝メッセージ

2006年3月5日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書4章21~30節より
「会堂での教え-2-」

1. 二つに分かれた人々
 イエスを前にして私たちは問われます。この箇所でも,人々の反応が二つに分かれたことがわかります。あのヨセフの息子が,神の救いを語っている。ここで多くの人がつまづきました。目の前にいるイエスは,ただの人ではないか。この反応は,とても素直なものでしょう。しかし,ここでイエスはこのことを問題にしているわけではありません。問題にしているのは,神の言葉を聞いたときの私たちの反応です。

2. 内と外
 ここでの問題は「内と外」という問題です。自分は,内にいるのか,それとも外にいるのか。イエスにとって,それが郷里であろうが,なかろうが,ご自身の力を発揮するのに支障はないでしょう。しかし,人々がもし,自分は既に神の内におり,悔い改めなど関係ないとするならば,真の悔い改めに至ることはないでしょう。つまり,自分たちは神の内の者であり,だから神は自分たちを救うべきだ,と人々は考えていたということです。その実例が旧約聖書にもありました。

3. 救いはどこから?
 いったい誰が神にとっての内なのでしょうか。私たちは,何によって救われるのでしょうか。それは,ただ神の前にひざまづき,自分の罪を悔い改め,神に助けを求めることによってです。誰も真に神の郷里の者ではありません。しかし,神の赦しによって,私たちは家族となることができるのです。しかし,多くの人々は,そうではなく,イエスを私たちの外に追い出してしまいます。キリストにあって,私たちは神の子となり,神の家族とされるのです。このすばらしい知らせをぜひ受け取りましょう。

[考えるために]
 異邦人,外の人とはどのような人のことでしょうか。神の民,内の人とはどのような人のことでしょうか。

投稿者 mb-church : 16:22 | コメント (0) | トラックバック

2006年03月02日

2006/2/26礼拝メッセージ

2006年2月26日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書4章14~22節より
「会堂での教え」

1. 貧しい人のもとに
 イエスはナザレの会堂で,イザヤ書を朗読しました。そこにイエスが来られた目的が記されていました。第一に,イエスは「貧しい人々に福音を伝える」ために来ました。ここでの貧しさとは,経済的な面だけをさしているのではありません。貧しさとは,神への飢え渇きのある人のことでしょう。貧しい人々,神なき人々,希望のない人々に,福音を伝えるために,キリストは来て下さったのです。

2. 捕らわれ人のもとに
 第二に,キリストは「捕らわれ人には赦免を」与えるために来られました。私たちの存在が,何かに捕らわれています。神のみこころではなく,自分を正しいとするための律法に捕らわれている人。お金や欲に捕らわれている人。恐れや怒りに捕らわれている人。私たちは,この世に鎖をつながれた囚人です。自分ではどうすることもできないそれらの鎖を解き放ち,自由にするためにキリストは来て下さったのです。

3. 目の見えない人のもとに
 第三に,「盲人には目の開かれることを告げるために」イエスは来られました。目が見えないことは,肉体的というよりも,私たちの状態をさしています。私たちが陥っている,神なき,望みのない状態。「罪」によって,私たちの目は曇っているのです。聖なる神の前に立ったとき,誰一人罪はないと言える人はいません。しかし,キリストは,その私たちのところに来て下さり,見えない目を開けるために来て下さったのです。

4. しいたげられている人のもとに
 第四に,「しいたげられている人々を自由にするために」イエスは来られました。しいたげられるという言葉と,試練や苦しみは密接な関係があります。なぜ?と問わずにはいられないようなことが,世界には満ち溢れています。その試練,苦しみ,そして死を打ち破るために,キリストは来られました。そして,イエスは私たちを裁くことよりも先に,私たちに「主の恵みの年」を告げ知らせるために来られたのです。

[考えるために]
 イエスは,なぜこの世界に来られたのでしょうか?

投稿者 mb-church : 09:36 | コメント (0) | トラックバック