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2006年01月26日

コンサートのご案内-その2-

再び岩渕まことさんのコンサートのご案内です。
いよいよ1ヶ月を切りました。
このコンサートのキャッチフレーズは「春よこい!ハートフルコンサート」。
今年の冬は本当に寒いですね。先日積もった雪も,教会の前に氷となってまだ残っています。
寒いからこそ,歌が心に染み渡ることってあります。
きっとそんな暖かいコンサートとなることでしょう。

2月18日午後1:30開場,午後2:00開演。
ちらしはこちら。#クリックすると大きくなります。

投稿者 mb-church : 10:07 | コメント (7) | トラックバック

2006年01月22日

2006/1/22礼拝メッセージ

2006年1月22日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書2章41~52節より。
「探す人は誰?」

1. 幼少のエピソード
 この箇所は,おそらくマリヤが回想したキリストのエピソードの一つでしょう。イエスは,どちらかといえば貧しい家に属する家庭に育ち,ごくごく普通に育てられたようです。イエスは神であるにもかかわらず,目立つ存在としてではなく,影に隠れたような形で歩んでくださいました。このことも大きな私たちへのメッセージでもあるでしょう。

2. 事件
 それは,イエスの両親が「過ぎこしの祭り」のために,エルサレムに上っていった際に起こりました。イエスが12歳のときです。帰路についた一行の中に,イエスがいなかったのです。両親は,このことに気がつくと,懸命に探しながらエルサレムまで引き返していきました。しかし,探し出したイエスは,なんと宮で教師たちの真ん中に座って,彼らと話しをしているではありませんか。当然,両親は驚き,イエスを戒めます。イエスは,神の子としての片鱗を見せていたのですが,そんなことは両親にとっては関係ありません。自分たちが,どれだけイエスを失って心配したか。そのことの方が,ここでは大事なことでした。

3. イエスのことば
 しかし,イエスは両親をいさめます。「わたしが必ず自分の父の家にいることを,ご存知なかったのですか。」通常であれば,イエスの行為は許されないものです。しかし,マリヤもヨセフも,イエスの言葉に対して何ともいえない説得力を感じたようです。イエスは生まれたときから,神の子キリストでした。そして,この出来事を通して,イエスは成人する前に,両親に対してご自身が神の子であるとの予告をされました。そして何より,イエスは,ご自分を探し出すということの意味をここで示されました。私たちが懸命に探し出そうとしておられる方は,父の家で待っていてくださっているということ。あなたの探している方はどのような方なのでしょうか?

[考えるために]
 キリストはどこであなたを待っておられるでしょうか?

投稿者 mb-church : 19:07 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月16日

コンサートのご案内

~春よこい~ハートフルコンサート
ゴスペルシンガー岩渕まことさんをお迎えしてのチャペルコンサートのご案内です。
2月18日(土)13:30開場,14:00開演,入場無料です。
駐車場はありませんので,車でのご来場はご遠慮ください。真砂バプテスト教会の場所はここです。

あなたも,歌に,トークに,ちょっと暖まっていきませんか?

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投稿者 mb-church : 09:06 | コメント (0) | トラックバック

2006/1/15礼拝メッセージ

2006年1月15日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書2章21~40節より。
「正しい人々」

1. シメオンとアンナ
 バプテスマのヨハネがそうであったように,キリストもユダヤの慣習に従って育てられました。そして,このキリストの出発点に,シメオンとアンナという二人の老人が登場します。彼らは,キリストを待ち望んで生きてきた「正しい」人々でした。羊飼いに続いて,ここで用いられているのは,名もなき年老いた人々でした。

2. 「正しさ」
 この名もなき人々がここに取り上げられているのは,その「正しさ」ゆえです。しかし,正しさと言っても,パリサイ人や律法学者たちとは異なる正しさです。それは,神のことばをどのように理解しているか,ということにかかっていました。彼らは,旧約聖書をまっすぐに受け止め,そして神を待ち望んできた人々の代表者です。彼らのこの姿,信仰は,旧約聖書をまっすぐに受け取るときに,実は,神のみこころ,神の救い,そしてキリストの意味をはっきりと受け取れることを物語っています。

3. 誰に与えられた救いか
 シメオンが語っているように,この救いは,すべての民のためのものでした。イスラエルだけではなく,異邦人にまで及ぶ光です。しかし,当時の人々はこのようには考えていませんでした。その正しさは,名目上の血筋によるものであり,また,律法を自分たちの方法で守ることに固執してきた人々の正しさです。神を敬っているようでそうではない姿がここにあります。分たちで自分のことを救おうとする人々。また,自分たちで他の人々をすぐに裁いてしまう私たち。そして,そのことがキリストを前にしたときに問われます。私たちは,キリストの前に立ったときに,神の前の自分を映し出されるのです。私たちを救うのは,すべての人を照らすまことの光,キリストなのです。

[考えるために]
 シメオンとアンナが示す正しさとは,どのようなものでしょうか。キリストの救いは誰のためのものでしょうか。

投稿者 mb-church : 09:02 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月08日

2006/1/8礼拝メッセージ

2006年1月8日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書2章8~20節より。
「最初の祝福」

1. あの夜の知らせ
 私たちは,まだあの夜にとどまっています。キリストが生まれたあの夜。すばらしい知らせは,誰に最初に知らされたのでしょうか。喜びの知らせは,キリストが来られたところに最も近い人々に伝えられました。それは羊飼いです。ここで,飼い葉桶の印の意味がもう一度確認されます。飼い葉桶は私たちへの印です。しかし,この印は第一に彼らのものでした。誰のためでもない,ただ彼らのためだけにこのことを用意なさる神。そして,彼らのために,天の軍勢までもが備えられます。ここに私たちの基準では計ることのできない,神の配慮を見ることができるのです。

2. 神の選び
 神の意思は自由です。神は私たちの思いや基準に従うお方ではありません。何を選択するのか,何をお決めになるのかは,神の自由です。そして,神はこの羊飼いたちをお選びになりました。彼らの言うことなど,いったい誰が信じることでしょう。しかし,彼らは喜び勇んで,そのみどりごに会いに急ぎます。神はこのようなお方です。 決して神は難しくはありません。まず私たちは神の前にへりくだり,自分の貧しさ,自分のおろかさを認めるときに,神は私たちを御子キリストの前に導いてくださるのです。

3. 神の前にへりくだるということ
 私たちは神の前で高慢になりすぎているのではないでしょうか。このみどりごを前にして,私たちが問われるのはこの点です。私たちの生の一分一秒でさえ,神の赦しなくては生きることはできません。このことを私たちは謙虚に受けとめ,この羊飼いたちのように,急いでキリストに会いに行き,その前にひざをかがめましょう。確かにキリストはこの私の所に来てくださったのですから。

[考えるために]
 あなたの基準と神の基準とは異なるのでしょうか。
 あなたは神の前にへりくだる者でしょうか。

投稿者 mb-church : 00:58 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月06日

2006/1/1礼拝メッセージ

2006年1月1日の礼拝メッセージです。
ゼカリヤ書4章6節より。
「あなたの霊によって」

1. 私たちの立ち位置
 文語では「いきおいによらず,ちからによらず,わが霊によるなり」と訳されています。この箇所は,「神殿再建」の時代に,預言者に語られた神のことばです。「いきおいによらず,ちからによらず」とありますが,それらを用いてはならないと言っているわけではありません。実際に,神殿再建には,多くの力が必要とされ用いられました。それらは適切に使われるべきです。しかし,神は,いつでも私たちの第一の場所,立つべき位置を指し示します。私たちは,「この私の力,私の手の力こそが,これらのことを成し遂げたのだ」と思う傾向があります。もしくは,その逆に劣等感や自己憐憫の思いに支配されることも多いでしょう。しかし,神は私たちに多くの物を与えています。それは,私たちが神を覚え,神をほめたたえるためなのです。

2. 教会の時代に生かされる私たち
 私たちが築きあげているものは何でしょうか。今,私たちは教会の時代に生かされています。キリストの体なる教会を建てあげるためにそれぞれは召されています。存分にそれぞれの賜物や能力を用いるべきでしょう。しかし,そのときに,私たちはこう告白するべきです。それはすべて「あなたの霊」によるものだ,と。

3. 「あなたの霊によって」
 第一に,「あなたの霊によって」と告白するときに,私たちは,何よりもまず,あなたがこの私を救ってくださった,ということを覚えることでしょう。誰の力でもなく,ましてや自分の力や努力ではなく,神の霊によって,私は救われたということ。次に,私たちは,そこに自分自身の願い以上の願いを見出すことになるでしょう。それは,私たちの思いをはるかに越える,神の愛を見出すことになります。さらにその告白によって,私たちは神の民としてのアイデンティティを確認します。十字架のキリストに従って行くときに,私たちをあらゆるものから解き放つ真の自由を得る立ち位置があるのです。

[考えるために]
 私たちはどこに立つべきなのでしょうか。
 私たちはいかなる時代に生かされているのでしょうか。

投稿者 mb-church : 07:43 | コメント (0) | トラックバック