2005年04月16日
2005/4/17礼拝メッセージ
2005年4月17日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「我は聖なる教会を信ず-使徒信条7-」
ピリピ人への手紙1:3~6より
1. 我は教会を信ず
「信じる」という言葉が出てきます。しかし,教会を信じるということと,神を信じるということは,同じ言葉でも,その内容は異なります。神は信仰の対象ですが,教会は信仰の対象ではありません。ここでは,教会は信仰を持つ者たちの集まりであるという意味で用いられています。
2. 公同の教会
教会は,父なる神,イエス・キリストの救い,そしてうちに働かれる聖霊によって,そこに確かに「ある」ものとなります。教会とは何でしょうか?聖徒の交わりとは何でしょうか?私たちが,今,ここにいること,それは,創造主である神を信じ,私たちの内に働かれる聖霊を信じるときに,決して偶然ではなくなります。公同の教会とは,普遍的,一般的という意味です。人間の違い,年齢や性別,教養,財産,国籍,民族の違いは,本質的な問題ではありません。その普遍性は,キリストにあってのみ実現します。私たちがキリストにつかなければ,聖徒の交わりなど見ることができない,ということになります。教会は,神によってキリストにあって呼び出された者たちのことを指しています。
3. 聖なる教会
教会は「聖」であることが求められています。聖とは,倫理的,道徳的に正しいことを含んでいます。しかし,神は,見せかけだけの聖さも,口だけの聖さも求めていません。聖書における「聖さ」とは,神の前にすべてが明らかなこと,です。隠すこと,神の前に認めないこと,これこそ神が忌み嫌われるものです。教会はキリストを示す役目を負っています。世にあって,世と向き合いながら,私たちは神の聖さを示さなくてはならないのです。私たちは,この世の正しさにおいても,問われています。そして,さらにもう一つの視点からも問われているのです。それは,神の前に隠してはいないか?神の聖さがそこにあったのかと,問われているのです。
[考えるために]
私たちの一週間の歩みを振り返って見ましょう。
すべてにおいて私たちは神を認めることができるでしょうか。
神の前に隠していることはないでしょうか。
投稿者 mb-church : 2005年04月16日 18:14
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