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2005年04月27日
今年度から
今年度,某キリスト教大学と某神学校から,
お二人の方が奉仕&研修のために,私たちの教会に来てくださっています。
お一人は,20才の神学科の大学生と,もう一人は・・・
もう一人は,中国は北京から神学校に留学された女性。
これから私たちの教会を通して,どのような交流とまた化学反応が起こるのか楽しみです。
お祈りしつつ,支援をしていきたいと願っています。
一年間という短い間ですが,よろしくお願いしますm(_ _)m
ぼくもついこの間まで神学生でしたので,お二人が本当に身近に感じます。
#まあ年はそれぞれに違うのですが・・・
ぜひ,ぜひ,よい働き人になって欲しいと思います。
お二人には,この一年の課題を与えました。
#一応,ぼくも牧師なので。
それは,「自分で決めて,自分でする」というものです。
こちらから指示を待つのではなく,自分で「これ」ということを決めて行動する,というもの。
1年間という短い期間なので,ちょっと大変かもしれませんが,ぜひ成し遂げていただきたいと思います。
何かできることがあれば,支援は惜しまないので,がんばってくださいね。
そして,今年度,5月15日の礼拝から,いよいよスタートします。
こどもからおとなまで,すべての人が出席する礼拝!
そして,礼拝の時間も変わります。10:30スタートが10:00からになります。
これからもHPでアピールしていくので,ぜひお間違えのないように。
#いつものように来ると,おそらく丁度メッセージの時に入ってくることになります(^^ゞ
そうそう看板も新しく発注しなくちゃなりません。
みなさん,どうかよろしくお願いいたします。
それでは。
投稿者 mb-church : 20:58 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月23日
2005/4/24礼拝メッセージ
2005年4月24日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「我は罪の赦しを信ず-使徒信条8-」
ローマ人への手紙3:19~24より
1. 罪と死
罪の赦しは,キリスト教信仰の中心です。それを教えるということは,同時に私たちの置かれた立場をも明確にしなくてはなりません。つまり私たちは罪人であり,死を負ってしまっているということを。人間のすばらしさと悲惨さとが入り混じる世界・・・これが私たちの世界です。私たちはその理由を懸命に探し,何とか説明しようとします。誰かの(先祖の)責任にし,神を恨み,運命を呪う。しかし,聖書はその理由を,私たちが抱えてしまった「罪」によるものであると教えています。
2. 罪とはなにか
聖書の語る罪とはいったいなんでしょうか。その一つとして,自分のいのちや生涯を,自分のものであるかのようにとらえ,そして生きることです。つまり,自分の好きに生きること,これが「罪」なのです。それは一見もっともなことのようですが,ここには落とし穴があります。それでは,自分のいのちや人生に対して,過小評価していることになるからです。聖書は,私たちの存在は,自分の好きなように生きるためにあるとは語っていません。あなたのいのちは,あなただけのものではなく,あなたを創造した神のものであるのです。そして,あなたのいのちは,自分自身の範囲にとどまらず,家族や周囲の人々へと,そのすばらしさが広がっていくものだ,と私たちに教えています。私たちは創られた初めから,孤独の中ではなく,人々と,そして神とともに歩むように形作られました。自分の好きなように生きることは,私たちを本当に満たす生き方ではないのです。罪とは,私たちの本質からはずれることです。孤独の中では生きることのできない私たち,ましてや,創造主である神のもとを離れては,本来の自分の姿,目的を失ってしまうにもかかわらず,そこから離れ,その存在を無視してしまうことこそ「罪」なのです。
3. 罪の赦し
この罪は私たちの力ではどうすることもできないものです。しかし,十字架によって,私たちの罪が赦され,キリストの復活の希望と聖霊の助けによって,私たちはこの罪から解き放たれたのです。私たちが本質である神から離れてしまうかわりに,神の側から私たちのところまで来てくださいました。私たちは,罪赦された者として,歩むことが許されているのです。神は,私たちの罪深い性質をもはや覚えようとはなさらないということを心に留めて歩ませていただきましょう。
[考えるために]
罪とはいったい何でしょうか?罪の赦しはあなたのいのちに,そして生涯に何をもたらすのでしょうか。
投稿者 mb-church : 16:56 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月22日
伝統と刷新と
この日曜日に総会が終わりました。
私たちの教会も新たな一歩をふみだしていきます。
ところで新たな一歩と言えば・・・
新たな一歩というと,何か新しさばかりに目がいってしまいます。
しかし,新たな一歩を踏み出すその足の反対側の足こそが,大切なものなのです。
その足がどこにあるのか・・・?
ぬかるみにないだろうか,それとも強固な土台の上にあるのだろうか。
私たちは今,どこに足を置いているのでしょうか?
こんな言葉があります。
伝統が悪いのではない。
伝統の中にある真理に目をむけず,伝統と言う名の表皮にこだわるのがよくない,ということ。
歴史,伝統・・・そこにある真にすばらしいものを簡単に失ってしまう時代です。
何か目新しさ,そのようなものに目が向いてしまう時代です。
大胆に誠実に,私たちは伝統を刷新していかなくてはなりません。
いえ,先ほど書いたように,伝統の本質にしっかりと足を置かなくては,次のよい一歩を踏み出すことはできません。
そこにすでにあるすばらしい年輪に,薄くてもよいので,もう一つ大きな輪を描かせていただきたい,
そう心から思う今日この頃です。
それはそれとして,先週,礼拝堂のレイアウトを少し変更しました。
よく赴任する前の神学校で,「ピアノの位置を5センチ動かすのも大変だ。数年かかる」という話を聞きました・・・すみません,すでにピアノは以前,大幅に動かしてしまい,さらには講壇も動いています。
会堂が,主を礼拝する場,多くの人を迎える場として,より用いられていくことを願っています。
投稿者 mb-church : 09:42 | コメント (0) | トラックバック
ラジオ
3月まで通っていた幼稚園に娘をおくる短い時間の間,よくAMラジオを聞いていました。
ブログとラジオって何か共通点がありますよね。
テレビよりもやっぱりラジオ。
あのこじんまりとした感じ。ひとりごとのような,それでいて,聞いている人を意識した語り口。
また,リスナーのレスポンスによって作り上げていくあのライブ感覚。
そういう意味で,きっとラジオ製作にはまる人々は,ブログにはまるよりもっとディープな感じがします。
先日聞いていた放送でも,リスナーによってすぐにレスポンスがあり,それが放送に反映されていました。
その反応のよさは,聞いていてちょっと感動ものでした。
ここまでTVはおそらく出来ないでしょう。
じゃあブログは?
ブログを見ている人の数が多ければ可能であるとは思いますが,
その性質上,ブログを見ている人の層は結構限られてしまいまうので,同じようにはいかないことでしょう。
しかし,ブロガーたちの欲望は際限ないので,どんどん既存のものを吸収し,
そして新たなものを作り上げていくに違いありません。
このHPも,教会の方々にとって,そしてまた教会の外にいる方々にとっても,互いをつなぐよき架け橋となることを願っています。
投稿者 mb-church : 07:56 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月16日
2005/4/17礼拝メッセージ
2005年4月17日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「我は聖なる教会を信ず-使徒信条7-」
ピリピ人への手紙1:3~6より
1. 我は教会を信ず
「信じる」という言葉が出てきます。しかし,教会を信じるということと,神を信じるということは,同じ言葉でも,その内容は異なります。神は信仰の対象ですが,教会は信仰の対象ではありません。ここでは,教会は信仰を持つ者たちの集まりであるという意味で用いられています。
2. 公同の教会
教会は,父なる神,イエス・キリストの救い,そしてうちに働かれる聖霊によって,そこに確かに「ある」ものとなります。教会とは何でしょうか?聖徒の交わりとは何でしょうか?私たちが,今,ここにいること,それは,創造主である神を信じ,私たちの内に働かれる聖霊を信じるときに,決して偶然ではなくなります。公同の教会とは,普遍的,一般的という意味です。人間の違い,年齢や性別,教養,財産,国籍,民族の違いは,本質的な問題ではありません。その普遍性は,キリストにあってのみ実現します。私たちがキリストにつかなければ,聖徒の交わりなど見ることができない,ということになります。教会は,神によってキリストにあって呼び出された者たちのことを指しています。
3. 聖なる教会
教会は「聖」であることが求められています。聖とは,倫理的,道徳的に正しいことを含んでいます。しかし,神は,見せかけだけの聖さも,口だけの聖さも求めていません。聖書における「聖さ」とは,神の前にすべてが明らかなこと,です。隠すこと,神の前に認めないこと,これこそ神が忌み嫌われるものです。教会はキリストを示す役目を負っています。世にあって,世と向き合いながら,私たちは神の聖さを示さなくてはならないのです。私たちは,この世の正しさにおいても,問われています。そして,さらにもう一つの視点からも問われているのです。それは,神の前に隠してはいないか?神の聖さがそこにあったのかと,問われているのです。
[考えるために]
私たちの一週間の歩みを振り返って見ましょう。
すべてにおいて私たちは神を認めることができるでしょうか。
神の前に隠していることはないでしょうか。
投稿者 mb-church : 18:14 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月13日
映画レビュー
ここは歯医者の卵,N.I.くんの部屋です。
今日は彼の映画レビュー。さてさて中身は・・・
[アイロボット]
この作品の舞台は近未来。ロボットが家庭にあり,その中でおこる不思議かつ現実的な物語。
ロボットが反乱をおこすのだが,誰が異常なのか,気になって仕方なかった。
中盤のドンデン返しがとてつもなく爽快だった。
久しぶりに気持ちのいいSFアクションをみた感あり。
ぜひ一見してみてください。
(N.I.)
投稿者 mb-church : 21:00 | コメント (1) | トラックバック
2005年04月10日
2005/4/10礼拝メッセージ
2005年4月10日の礼拝メッセージの要約です。
「我は聖霊を信ず-使徒信条6-」
ヨハネの福音書16:7~16より
1. 我は聖霊を信ず
聖霊とはいったい何でしょうか。何か目に見えない霊的な,幽霊のようなもの?もしくは,私たちの内側を熱く熱く燃やす力?聖霊を語るときに,案外と私たちの主観を強調して語ることが多いのではないかと思います。しかし,もう一度,聖書に,そしてこの使徒信条に目を向けると,あることに気がつかされます。それは,聖霊も神であるということです。だからこそ,聖霊に対しても「信じる」という信仰の告白がされています。
2. 聖霊について
イエスは聖霊について,十字架にかかる前に弟子たちに必要なことを語られました。その中で,聖霊について私たちが知ることのできることは次のことです。それは,聖霊はキリストの栄光を示すということ,そして聖霊は私たちに「語られる」ということです。聖霊は,イエス・キリストを証しするものであり,自らが前に出てくるというよりは,むしろ父なる神とイエスを,前へ前へと押し出そうとするお方です。そして何よりも,十字架の福音を私たちの内に形成してくださるお方が,聖霊なる神なのです。
3. 語られる方
私たちは,神を,そしてそのみこころを,聖書を通して教えられ,知ります。それは,私たちの能力や力によるものではなく,語られる聖霊によって私たちは教えられます。私たちが内に語られる方を認めるときに,今ともにおられ,働き,慰め,励まし,神とともに歩むことを支えてくださる方がおられることを,はっきりと知ることができます。キリストは,私たちに聖霊を残してくださいました。それは,私たちをご自身と同様のものとして,遣わしてくださるということでもあります。聖霊は,私たちを助け,私たちを励まし,私たちを通して,イエスの,神のご栄光を,福音そのものを指し示してくださるお方なのです。
[考えるために]
聖霊の働きとは何でしょうか。
御霊の実とは,抽象的なものでしょうか,それとも具体的なものなのでしょうか。
投稿者 mb-church : 00:06 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月06日
山中湖中高生春キャンプ
トーチベアラーズ山中湖で開催された中高生春キャンプの模様です。日程は3月28日から30日。
すでにPstrNS::Blogではご紹介にあずかってます。
このキャンプ,とても楽しいキャンプとなりました。
#毎回,ぼくが一番楽しんでます。
キャンプといっても,宿泊先はトーチベアラーズ山中湖という,とってもきれいな木造りのキャンプ場。
いい感じです。
外には雪が氷りとなって残っていました。
このキャンプのテーマは「カミノチカラ」。
大阪は枚方から山本みのる師を招き,身近な話題から聖書のメッセージを語っていただきました。
楽しくて盛りだくさんで,でもちょっとほっとするキャンプを目指し,プログラムを組みました。
はじめて顔をあわせる人も多くいたので,初日は緊張感をほぐして,ほぐして・・・
そして夜にはメッセージとちょっと夜更かし映画会!
特製シフォンケーキを食べながらの贅沢な夜を堪能しました。
2日目には,ある課題に取り組んでもらいました。
それは,4つのグループに分かれてのスキットづくりです。
テーマは「春と高価」「学校と正義」「スポーツと親切」「家族と友情」でした。
#テーマの組み合わせはくじ引きです。
それぞれのグループで話し合い,劇をつくります。公演はその日の夜。どんなものが飛び出すか!?
これは練習風景。
この日のお昼はBBQ!
雨が降っていましたが,ウッドデッキでやりました。
美味しかった~
特に焼き鳥と焼きそば。最後まで焼きそばをつくってくれたメンバーに感謝です。
そして,その日の午後は,BBQのにおいがしみ込んだ体を,温泉にいって洗い流してきました。
なんて贅沢・・・
そして,この日の夜のメニューも美味しかった!!
#やけに!マークが多いですがご理解くださいませ。
これですよ,これ。
たまりません。
みな,きっと太って帰ったことでしょう。
#詳しい食事のメニューはこちら
そして,夜のスキット大会。
大盛り上がりでした。特にスタッフの方々。
やりすぎです。でもおもしろかったのでゆるしましょう。
そして,夜のメッセージタイム。
えっ先生,そんなことがあったの・・・というような話しから,
一人一人の心に十字架のメッセージがしっかりと語られました。
その後の各学年に分かれてのグループタイム。いい話がなされたことはいうまでもありません。
そして,ここでも,分かち合いのともに,ふわふわのホットケーキ。
こんなにまで用意されているキャンプがあっていいのでしょうか・・・
いいんです!
そして,最終日。
すっきり晴れた朝。みんなで散歩をしました。
富士山をバックに記念撮影。
みんないい顔をしています。
#富士山は光かがやいています!
すっかり打ち解けて楽しい雰囲気。この後,もう帰るだなんて信じられません。
そして,最後のメッセージと分かち合い。
本当によいキャンプでした。
みんな,また会いましょう!!
新しい生活に神様の祝福がありますように。
「カミノチカラ」がそこにあることを忘れずにね。
投稿者 mb-church : 17:13 | コメント (1) | トラックバック
2005年04月02日
2005/4/3礼拝メッセージ
2005年4月3日の礼拝メッセージの要約です。
「我は裁きの主を信ず-使徒信条5-」
ヘブル人への手紙9:24~28より
1. イエスは今どこにおられるのか。
私たちの前を歩まれる方,私たちの歩むべき道を指し示す方,イエスは今どこにおられるのでしょうか。十字架にかかり,私たちの罪の現実,死をその身に受けてから,イエスは一体どこに行かれたのでしょうか。イエスは,十字架の死と復活の後,天にのぼられました。それでは,なぜイエスは天にのぼられたのでしょうか?
2. 神のご計画
イエスが地上に留まることは,神のご計画ではありませんでした。神のご計画は,さらに先を見ていたのです。私たちは,この地上での生涯しかないように思います。しかし,神の視点ははるか先を見ています。イエスが天にのぼられたことが,このことを物語っています。つまり,地上の生涯で終わりではないということです。しかし,それはイエスを境にして二つに分けられます。イエス・キリストに従うときに,私たちはイエスと同様のものへと導かれますが,イエス・キリストを失ってしまうならば,私たちは抱えた罪の深さゆえに,神を,そしていのちを完全に失うという結果に終わるのです。
3. 裁き主イエス
ですから,イエスは裁き主でもあります。その裁きはゴールであると同時に出発点でもあります。これまでの人間の罪,そこから生じるあらゆる不正,不平等,不条理,悪,苦痛,悲しみ・・・それらのものの終わりであると同時に,再び,この世界が,神の秩序へと,神の国へと再創造されるその出発点こそが,このイエスの裁きの時なのです。その裁きの時に,神の正しさ,神のわざ,神ご自身が最後に示されます。そしてそれによって,罪の現実,神と敵対する力,そのものが最後にその力を失うのです。しかし,イエスを信じるものは,決してこの裁きを恐れる必要はありません。恐れるのではなく,完全に神のみこころが示され,そして,神との和解が完成し,救いが完成する,その時であると信じることができるのです。
[考えるために]
なぜイエスは天にのぼられたのでしょうか。
あなたはイエスに従いますか?それともその逆ですか?
投稿者 mb-church : 23:33 | コメント (0) | トラックバック
イースター
今週はキャンプがあり,更新が滞ってしまいました。
ちょっと遅くなりましたが,まずは,イースターのご報告。
イースターは特別礼拝として,こどもから大人まで一緒に礼拝をささげました。
時間は10時から。
この日初めて来られた方には,時間変更のお知らせが行き届かなくてご迷惑をおかけしました。
こどもたちと一緒に礼拝をささげ,キリストの復活のめぐみをともに覚えることができ感謝でした。
また,転入会式もあり,うれしいうれしいイースター礼拝でした。
礼拝の後は,恒例のたまごさがし。
近くの公園でこどもたちと一緒にたまごを探しました。
たまご探しの後は,1F ホールでお食事会です。
今日のメニューはカレー。
イースタースペシャル!ということで,中にうずらの卵が入っています。
とてもおいしかった!!
食事をしながらの楽しいひと時となりました。
用意してくださった方々に感謝です。
春を感じる教会の一こまでした。