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2005年03月19日

2005/3/20礼拝メッセージ

2005年3月20日の礼拝メッセージの要約です。
「我は十字架の主を信ず-使徒信条3-」
マルコの福音書8:27~31,10:32~34より

1. ポンテオ・ピラト
 使徒信条には,ローマ帝国のユダヤ総督の名が記されています。この名が刻まれることにより,イエスが歴史に生きたことは,まぎれもない事実であると私たちは告白します。この総督のもとで,ひとりのユダヤ人が裁判にかけられ,十字架刑に処せられました。この事実を使徒信条は淡々と告白しています。

2. 十字架につけられ
 使徒信条において,出生の次には,すぐに死の苦しみが続きます。その間のイエスの生涯については何一つふれることはしません。イエスは十字架の苦しみと死へと一直線に進むために生まれてくださった,そういっても差し支えないほどに,この告白は十字架の死を中心においています。イエスは,その生涯の中で,私たちと同じように,生き,悩み,苦しまれたことが証しされています。しかし,その苦しみは,十字架の苦しみの序曲にすぎないとといってもいいかもしれません。それほどまでに,十字架の苦しみは極限の苦しみでした。私たちの苦しみを負う。言葉にするのは簡単です。しかし,私たち,人の苦しみは,恐ろしいほどに多様で,また深く,痛ましいものでもあります。何よりも「死」という敵!すべてを無にし,すべてを終わりにし,すべてを飲み込んでしまう死。どんなに死を美化しようとも,死の現実は私たちの前に不気味に横たわっているのです。

3. 死へと向かう歩み
 イエスは確かにこの世界に生きてくださいました。私たちと同じように歩まれました。しかし,その道は,十字架へと続く道であったのです。イエスは「必ず」という言葉を用いて,そのことを予告しています。聖書は人間が負ってしまった死を,それが人間にとって最も憎むべきものであると言っています。そしてイエスも,人の死の運命に対して涙を流されました。イエスは,私たちの負ってしまった死,そして苦しみをその身に受けるために,十字架へと自ら向かって行ったのです。

4. 十字架の主
 この一人の死が歴史に与えたインパクトは計り知れません。なぜなら,イエスは神の子であり,その神である方が,私たちに担いきれない死そのものを十字架の上で負ったからです。まったく死や苦しみがふさわしくないお方が,極刑である十字架を受けられた。受けさせられたのではなく,自らそこに向かわれたのです。神がそこまでしなくてはならないほど,人間の抱えた罪の痛手は大きいのです。苦しみをもたらし,関係を破壊し,死をもたらす致命傷。その傷をいやすために,イエスは十字架の上に行かなくてはならなかったのです。

5. 最後の棘
 私たちには「死」が必ず待っています。いつかは終わりがきます。しかし,イエスは,死という最後の棘を抜くために来られました。誰一人として失いたくない,だから私は必ずあの十字架につく・・・イエスはそのように歩まれたのです。これは他の誰かではできません。十字架の主のみが成しえるのです。


[考えるために]
 十字架の苦しみと死は,あなたに何をもたらしますか。

投稿者 mb-church : 2005年03月19日 16:17

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