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2005年03月26日
2005/3/27礼拝メッセージ
2005年3月27日のイースター礼拝におけるメッセージの要約です。
「我は復活の主を信ず-使徒信条4-」
マタイの福音書28:1~10より
1. イースター
一年で一番喜ばしい日。イエスが私たちの最後の敵である「死」を制圧した日。約2000年前のこの日を境に,クリスチャンにとってのお墓,死の意味が変わりました。イエスの復活により,お墓は,ただの葬りの場所ではなくなり,神との約束の場所,記念の場所となったのです。
2. 死にて葬られ,よみに降り
十字架の苦しみをすべてイエスはその身に受けられました。私たちが受けるべき,その苦しみです。そして,完全にイエスは死に渡され,愛する父なる神から離されました。イエスは確かに,私たちと同じように死に,葬られたのです。
3. 新しいいのち
十字架の死によって,私たちは赦されました。しかし,そこで終わらずにさらに神は,私たちに「永遠のいのち」というまったく新たなものを与えてくださいました。死で終わるいのちが完全にその時を終え,新しいいのちが生きはじめる・・・それがこの復活です。天地を創造した父なる神にしかできない創造のみわざが,もう一度そこに現されたのです。
4. 新しい神との関係
復活のイエスを信じるときに,私たちに新しいいのちが与えられます。それは見た目の問題ではありません。そうではなく,神と私たちの関係が,主人としもべという関係を越え,イエスと同様に父と子の関係へ,そして友としての関係へと変えられていきます。「復活」ほど,私たちにとって信じ難いことはありません。しかし,だからこそ神のわざであるのです。このことは歴史上に起こりました。イエスは,私たちの先に立ち,歩んでくださっているのです。もうイエスはお墓にはいません。復活のイエスに焦点をあわせて,歩んでまいりましょう。
[考えるために]
復活のイエスにある希望とは何でしょうか。
神との関係がどのように変えられているのでしょうか。
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2005年03月24日
Two Brothers
ジャン=ジャック・アノー監督のトゥー・ブラザーズを見ました。
小学校高学年から中学生という年代と一緒に見ることのできる映画はないかと探していましたが,
この映画もその一本に入るのではないかと思います。
とにかくトラの子がかわいい!のです。
監督が思わず映画の一本も撮りたくなるのがよく分かります。
ストーリーの詳細は内緒ですが,はらはらどきどきさせる場面もあり,
ほどよくまとまっているのではないでしょうか。
落ち着くところに落ち着きすぎるのは,多少面白みに欠けますが,
それを補って余りあるトラたちの演技!
サイレントムービーでも十分いけます。
映像がハリウッド調ではなく,異国情緒たっぷりなのも○。
人間以上に人間らしいトラ兄弟につきる作品です。
ヒューマニズムならぬタイガーニズム!?というところでしょう。
それにしても,教会で中学生たちと一緒に見ることのできる映画って少ないと思いませんか?
いい作品だな~と思っても,性的な描写が過度に入っていたり,暴力シーンが満載だったり・・・
それが現実と言えば現実ですが,
それにしても安心して見せられる映画があまりないのが現状ではないでしょうか。
どなたか良い作品があればご紹介ください。
ちなみにChristianity Todayのムービーレビューはとても役立ちます。
分かち合いのポイントとか載っていたりして。
一度ごらんください。
投稿者 mb-church : 09:43 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月19日
2005/3/20礼拝メッセージ
2005年3月20日の礼拝メッセージの要約です。
「我は十字架の主を信ず-使徒信条3-」
マルコの福音書8:27~31,10:32~34より
1. ポンテオ・ピラト
使徒信条には,ローマ帝国のユダヤ総督の名が記されています。この名が刻まれることにより,イエスが歴史に生きたことは,まぎれもない事実であると私たちは告白します。この総督のもとで,ひとりのユダヤ人が裁判にかけられ,十字架刑に処せられました。この事実を使徒信条は淡々と告白しています。
2. 十字架につけられ
使徒信条において,出生の次には,すぐに死の苦しみが続きます。その間のイエスの生涯については何一つふれることはしません。イエスは十字架の苦しみと死へと一直線に進むために生まれてくださった,そういっても差し支えないほどに,この告白は十字架の死を中心においています。イエスは,その生涯の中で,私たちと同じように,生き,悩み,苦しまれたことが証しされています。しかし,その苦しみは,十字架の苦しみの序曲にすぎないとといってもいいかもしれません。それほどまでに,十字架の苦しみは極限の苦しみでした。私たちの苦しみを負う。言葉にするのは簡単です。しかし,私たち,人の苦しみは,恐ろしいほどに多様で,また深く,痛ましいものでもあります。何よりも「死」という敵!すべてを無にし,すべてを終わりにし,すべてを飲み込んでしまう死。どんなに死を美化しようとも,死の現実は私たちの前に不気味に横たわっているのです。
3. 死へと向かう歩み
イエスは確かにこの世界に生きてくださいました。私たちと同じように歩まれました。しかし,その道は,十字架へと続く道であったのです。イエスは「必ず」という言葉を用いて,そのことを予告しています。聖書は人間が負ってしまった死を,それが人間にとって最も憎むべきものであると言っています。そしてイエスも,人の死の運命に対して涙を流されました。イエスは,私たちの負ってしまった死,そして苦しみをその身に受けるために,十字架へと自ら向かって行ったのです。
4. 十字架の主
この一人の死が歴史に与えたインパクトは計り知れません。なぜなら,イエスは神の子であり,その神である方が,私たちに担いきれない死そのものを十字架の上で負ったからです。まったく死や苦しみがふさわしくないお方が,極刑である十字架を受けられた。受けさせられたのではなく,自らそこに向かわれたのです。神がそこまでしなくてはならないほど,人間の抱えた罪の痛手は大きいのです。苦しみをもたらし,関係を破壊し,死をもたらす致命傷。その傷をいやすために,イエスは十字架の上に行かなくてはならなかったのです。
5. 最後の棘
私たちには「死」が必ず待っています。いつかは終わりがきます。しかし,イエスは,死という最後の棘を抜くために来られました。誰一人として失いたくない,だから私は必ずあの十字架につく・・・イエスはそのように歩まれたのです。これは他の誰かではできません。十字架の主のみが成しえるのです。
[考えるために]
十字架の苦しみと死は,あなたに何をもたらしますか。
投稿者 mb-church : 16:17 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月17日
卒業式
今週はちょびっと忙しく,更新が滞ってます・・・。
月曜日には,久しぶりに羽村に行きました。
なぜならば,神学校の卒業式だったからです。
私たちの教会のメンバーのお兄さんが卒業しました。
ぼくも,1年前にはこの神学校の卒業する一人でした。
やっぱり卒業式はいいもんです。
卒業式恒例の卒業生のコメントも,それぞれに個性が出ており,涙あり,笑いありの卒業式でした。
みなさん,楽しく主に仕えていきましょうね!
教会メンバーのお兄さんは,この教会に赴任します。
宮崎!遠いな~
ぜひ遊びに,いや励ましに行きたいものです。
神学校での出会いと,そして私たちの主にある友情に感謝しつつ。
投稿者 mb-church : 13:27 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月12日
卒園式
今日は娘の卒業式でした。
この1年,親子ともども大いに楽しんだ愛隣幼稚園からの卒業です。
幼稚園の皆さんと,そしてそれを支えてくださる方々と,そして親たちの心が合わさった式でした。
娘は本当にここでよい時を過ごさせていただいたな~と,感謝,感謝の式でした。
園長せんせいのお話はヘブル書から。
イエスさまがいつでも,いつまでも,みんなのそばにいてくださるとのメッセージに,こちらも励まされた思いです。
子どもたちが声を合わせて歌っている姿は,理屈ぬきに心を動かされます。
大人は子どもと動物には弱いものですが,それは仕方がありません。
だっていいんだもん!「ともだちのうた」!!
本当に愛隣幼稚園のみなさん,そして娘のおともだちとそのご家族のみなさん,ありがとうございました。
そしてみなさんの祝福をお祈りしています。
あっそうそう,この愛隣幼稚園のホームページにある園長先生の子育てアドバイス,これは一読の価値ありです。おすすめしておきます。ぜひ読んでくださいませ。毎月更新しています。
投稿者 mb-church : 12:20 | コメント (0) | トラックバック
2005/3/13礼拝メッセージ
2005年3月13日の礼拝メッセージの要約です。
「我はイエスを信ず-使徒信条2-」
ヨハネの福音書11:25~27より
1. イエスへの信仰
使徒信条の告白は,父なる神への信仰告白に続いて,父,子,御霊なる神の「子」である方,イエス・キリストへの信仰を告白します。キリストとは,「救い主,メシア」という意味です。イエス・キリストという呼び名そのものが,わたしは救い主なるイエスを信じます,という告白でもあるのです。
2. イエスとは誰か?
ナザレのイエスとはいったい誰なのか。当時の人々に突きつけられた問いでした。しかし,この問いは現代においても変わらず私たちの前に置かれています。ただの人なのか,それとも預言者か,狂人か,善人か,いったい誰なのか。イエスは自らのことをよみがえりであり,いのちであると言いました。もしこのことが真実であるならば,私たちは,イエスが誰なのかを真剣に考えなくてはならないでしょう。
3. 神のひとり子
神のひとり子,それこそがイエスご自身が主張されたことでした。イエスは神のひとり子であるにもかかわらず,人の罪,悲惨,死そのものを背負うために,私たちと同じひとりの人となりました。イエスという名で,神のひとり子である方が,実際に歴史の中に存在したのです。この方は,完全に神でありながら,完全に人でもありました。それゆえに,私たちの完全な身代わりとなることができたのです。
4. 人であるイエス
イエスは神であることが聖書によって証されています。それと同時に全くの人であることも記されています。このイエスをキリスト,私の救い主と信じるときに,私たちは神の義を得ることができます。このイエスがキリストであると信じるか信じないか。この分岐点に私たちは立たされているのです。
5. 私たちの主
神がもし,そのひとり子イエスを送ってくださらなければ,神は私たちと何の関係もないことになるでしょう。しかし,イエスが私たちの側に,私たちの住む場所にまで来てくださったがゆえに,イエスは私たちの主となられたのです。この方を通して,私たちは神のご計画を知らされ,そしてそこに生きることができるのです。
[考えるために]
イエスとは誰なのでしょうか。あなたとどのような関係があるのでしょうか。
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2005年03月11日
Skype会議
Skypeで初会議をしました。
和歌山にいる牧師2名と計3名の会議でした。
これがなかなか・・・
・・・よかったです。
手元に共通の資料があれば,充分会議ができます。
face to faceとまではいきませんが,それに近い感覚で話ができました。
いや~便利な世の中になったものです。
これが無料とは!!
ぼくの周囲でも,少しずつSkype人口が増えてきました。
メールや文字でのコミュニケーションの不足を,音声によって大分カバーできる感があります。
電話のようで,使って見ると電話とも違う感覚。
ぼくにとって,このツールはかなりのヒットです。
きっと人それぞれの好き嫌いはあると思うんですけどね。
これで動画までついてしまうと,話ながら別の作業をしているのがばれてしまうので,
今はまだ音声のみでよいのです。
それとやはり,どうも長Skypeになってしまうので,これから自分で改善しなくてはなりません。
ということで,Skypeを導入した方は,お知らせくださいませ。
投稿者 mb-church : 11:46 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月09日
今日の水曜日集会
今日の水曜日集会の様子です。
ともに聖書を開き,そして自由に話し合うときを持ちました。
ルカ9章18~27を開きました。
ペテロのイエスがキリストであるとの告白と,イエスさまの十字架予告。
そして,十字架の救いを明らかにされた一つ一つの言葉。
それらの言葉を丁寧に分かちあいました。
私たちはみな,イエスさまを前にした時に,いつかはこう問われます。
「あなたは,わたしをだれだと言いますか?」
この答えを得ることができた人は,本当に幸いな人だと言えるでしょう。
「信じる」ことに関して話し合う中で,戦争の話になりました。
出席されている方々の中には,実際に戦争の体験をされた人がいます。
今日は,本当に貴重な話を伺うことができました。
その中で考えさせられたのは,誰を,何を信じるかということは大事なことだということです。
信仰には力があります。
しかし,何を信じるかによって,大きく異なることも確かです。
私たちの生涯の歩みの途上には,本当にさまざまな出来事,予期せぬ出来事が起きます。
その時に,この方,イエス・キリストを知っているか,いないかでは,大きく歩み方が違ってきます。
自らの力でいのちを救うのではなく,この方によっていのちを救う・・・
その歩みは,まさに自分自身を取り戻すことのできる唯一の歩みなのです。
すっかり外は春です。
投稿者 mb-church : 12:30 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月05日
2005/3/6礼拝メッセージ
2005年3月6日の礼拝メッセージの要約です。
「我は神を信ず-使徒信条1-」
ローマ人への手紙10:9~13,詩篇19篇より
1. 信仰告白
使徒信条の原型は2世紀頃からすでに告白されていました。キリスト教は告白の上に立つ信仰を持っています。それは聖書によって自己を啓示された神に応答するゆえです。ですから信条は洗礼の際に告白したことがよく知られています。告白が信仰の原点となるのです。
2. 問いと答え
使徒信条は三位一体の神への信仰告白です。
「もし神が存在しても,答える必要はありません。しかし,人間が存在するならば,耳を澄ます義務があります。」(ギドン)
私たちが人間として生き,考え,感じ,行動しているならば,なぜこのような「人間」としてここにいるのかを考えざるを得ません。神がいるか,いないかではなく,この私が偶然存在しているのか,否か。この問いに対して,神は聖書を持って確かに答えています。
3. 「天地の造り主」
天と地-私たちの目に入るもの全て,という意味です。人間は無から創造することはできません。全てを創造したお方,それが神です。目に見えない心,人格,存在そのものを形作ったお方です。そして神は全ての創造物を「よい」としました。神を信じるということは,この世界やいのちをすばらしいとすることです。そこに神の栄光のみ業を見るのです。
4. 「全能なる神」
全てが可能であり,全てが実現していく-それだけではありません。全地を創造した方は,私たちの心の内側に至るまでご存知であり,全てのものがこの方の影響を受けています。天地の創造主は,世界を放置し人間を野放しにはしていません。今もこの世界に影響を与えているのです。
5. 「父なる神」
御子キリストとの関係のゆえに,父なる神と告白されています。そしてさらに御子キリストの十字架のゆえに,私たちもまた神を父と呼ぶことが許されています。神は私たちの父であることを否んではいません。この時代は傲慢な時代です。神を信じるとは,私たちのあらゆるところに,神を認めていく,いや認めざるを得ないことを知ることなのです。
[考えるために]
聖書に示された神はどのような方なのでしょうか。また神を信じて生きるとはあなたにどのような意味を与えるでしょうか。
投稿者 mb-church : 19:22 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月04日
浜松のつづき
浜松から無事帰ってきました。
今回の研修で聞けたメッセージはストレートでとてもよかったと思います。
でも・・・
なんだか研修に行ったのか,仕事に行ったのかよくわからない2泊3日でもありました。
研修の中で,あるプレゼンを発表することに携わっていたからです。
なんだか少し牧師になる前の仕事を思い出しました。
ぼくはよく仕事でプレゼン資料をつくることがありました。
もうそれは直前に直しが入ったり,突然変更があったりと,とても大変であったことを覚えています。
まあそのおかげで,突然変更になったり,予期せぬ出来事が起こることに対する適応力が鍛えられたとも思っています。
それにしても,ぼくが属しているグループには「若手」が少ないな~。
本質的なものは変えずに,よい意味で変化していくこと,また様々な違いはあれど,そこにいる多くの人の力を一つにしていくことなど考えさせられたことは数多くありました。
プレゼン資料はそのうちバプテスト教会連合のHPで公開されるかもしれません。
#勝手に言っているだけですが。
連合の牧師にも年代の層が幾つかあります。
ぼくの年代も何人かいますが,もっともっと互いによい関係を持って刺激しあっていきたいですね。
思いきってジャンプしてみることも,たまには必要なのです。
雪の時は止めたほうがいいですけどね。
投稿者 mb-church : 20:25 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月01日
浜松にて
今日は浜松のホテルで研修です。
研修は研修でも牧師たちの研修会・・・
さてそれはどんな集まりなのでしょうか?
といっても,現在深夜です。
もう眠いのをとおりこしてしまいましたが,明日もあるので,やっぱり寝ようと思います。
#今日は別の用件でこんな時間になってしまいました。
詳しくは明日以降にしたいと思いますが,寝る前に一言だけ。
今日は,浜松に行く間の車中での先輩牧師との会話を楽しみました。
やっぱり人の話を聞くのは楽しいことです。
自分とは別の視点からの話はよい刺激です。
研修会も,研修以上に,そのような人からの刺激がいいんですよね。
短い時間ではありますが,大いに楽しんで帰りたいと思います。
#遊びとはまたひと味違う楽しさです。
このような場所に来ると,牧師といっても本当にいろいろな人がいることがわかります。
そんな普段見れない場面を見せてあげたいな~と思うのでした。
それではおやすみなさい。